ルイ16世は当初、国民議会の権威を受け入れることに消極的で、その多くの改革に抵抗していました。しかし、革命運動が勢いを増し、議会が権力を固めていくにつれ、王は次第にその要求に屈していきます。ここでは、国民議会に対するルイ16世の対応を、主要な出来事に沿って時系列で見ていきましょう。
1. 三部会の召集(1789年)
1789年、ルイ16世は深刻な財政危機と改革を求める圧力に応えるため、聖職者・貴族・平民という三身分からなる代表機関「三部会」の召集に同意しました。実に175年ぶりの召集であり、これがフランス革命の幕開けとなりました。
2. 球戯場の誓い(テニスコートの誓い)
第三身分(平民)の代表者が議場から締め出された際、ルイ16世は介入をためらいました。その結果、第三身分は球戯場で「国民憲法制定議会」の結成を宣言することになります。王権に対する民衆の意志を示したこの瞬間は、革命における重要な転換点となりました。
3. 王室会議とネッケル罷免
ルイ16世は権威を取り戻そうと、1789年6月に王室会議を開いて国民議会の決議を無効化し、国民から絶大な信頼を得ていた財務大臣ジャック・ネッケルを罷免しました。この強硬な措置は激しい怒りを呼び、革命運動をさらに急進化させることとなりました。
4. バスティーユ襲撃
ネッケルの罷免は、1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃へとつながります。王権への反抗と変革への決意を象徴するこの出来事は、革命全体の流れを決定づける画期的な瞬間でした。
5. 人権宣言の受諾
1789年8月、ルイ16世は個人の自由、平等、人民主権を謳った「人間および市民の権利の宣言」を、しぶしぶながらも受け入れました。
6. ヴェルサイユ行進(女性たちの行進)
1789年10月、「パンをよこせ」と改革を求める大勢の女性たちがヴェルサイユ宮殿へと行進しました。ルイ16世は群衆に向けて自ら言葉を述べ、王室をパリへ移すことを約束せざるを得ませんでした。
7. 聖職者民事基本法
1790年、国民議会はカトリック教会への国家統制を確立し、司祭に国家への忠誠宣誓を義務づける「聖職者民事基本法」を可決しました。ルイ16世は当初この法案に強く反対していましたが、最終的には不本意ながら承認しています。
8. ヴァレンヌ逃亡
1791年6月、ルイ16世とその家族はフランス国外への脱出を図りますが、国境近くの町ヴァレンヌで発見され、捕らえられました。この逃亡未遂事件は君主制への国民の信頼を決定的に損ない、王としての信用を大きく傷つけました。
9. 王政の停止と処刑
1792年8月、王政は停止され、ルイ16世は投獄されました。その後の裁判で反逆罪の有罪判決を受け、1793年1月、ギロチンによって処刑されました。
まとめ
ルイ16世の国民議会への対応は、時代とともに大きく変化しました。当初は頑なに抵抗していたものの、革命の進展とともに次第に譲歩を重ねていきました。しかし、より民主的で民意を反映した政治体制を求める高まる革命の熱気を前に、王権を守ろうとする彼の努力は、最終的に実を結ぶことはなかったのです。