イングランド王リチャード3世(1452年〜1485年)は、ヨーク朝最後の王として知られる悲劇の君主です。シェイクスピア戯曲の題材にもなった彼の人生には、謎と伝説が数多く残されています。この記事では、リチャード3世の幼少期から即位、そしてボズワースの戦いでの最期までを、時系列に沿ってわかりやすく解説します。
幼少期
誕生と家族
リチャードは1452年10月2日、ノーサンプトンシャーにあるフォザリンゲイ城で生まれました。父はヨーク公リチャード・プラタジェネ、母はセシリー・ネヴィルです。兄には後のエドワード4世となるエドワードやクラレンス公ジョージがおり、リチャードは兄弟の末っ子として育ちました。
父の死と兄の即位
1460年、父ヨーク公リチャードはウェイクフィールドの戦いで戦死しました。当時リチャードはまだ8歳でした。翌1461年、長兄のエドワードがエドワード4世として即位し、ヨーク朝が成立します。リチャードは同年、グロスター公に叙されました。
教育と健康状態
少年時代のリチャードは、大貴族ウォーリック伯リチャード・ネヴィル(「キングメーカー」)の影響下で教育を受けたとされています。また、2012年に発見された遺骨の調査により、リチャードが側弯症(そくわんしょう)を患っていたことが確認されました。ただし「猫背だった」という後世のイメージは誇張であり、実際は小柄ながら武芸にも優れた人物だったと考えられています。
人生
王位継承への道
1483年4月、兄エドワード4世が亡くなると、リチャードは甥の若きエドワード5世の摂政(護国卿)に就任しました。しかし同年、エドワード5世とその弟——いわゆる「塔の王子たち」——の嫡出性が否認され、リチャード自身が7月6日に国王として戴冠します。王子たちがロンドン塔で姿を消したことは、歴史上最大の謎の一つとされ、リチャードへの批判的な評価につながりました。
短く波乱に満ちた治世
リチャード3世の治世はわずか2年余りでした。在位中はバッキンガム公の反乱など度重なる反乱に直面し、さらに1485年にはフランスの支援を受けたヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)がイングランドへ侵攻します。
ボズワースの戦いと最期
1485年8月22日、レスター近郊のボズワースの戦いでリチャード3世は敗北し、戦死しました。イングランド王が戦場で命を落としたのは、これが最後のことです。彼の死によってヨーク朝は幕を閉じ、テューダー朝の時代が始まりました。
500年の時を超えた再発見
リチャードは当初レスターのグレイフライアーズ修道院に埋葬されましたが、修道院解散後に墓所は失われてしまいました。ところが2012年、レスラー市内の駐車場地下から遺骨が発見され、DNA鑑定などによりリチャード3世本人と確認されます。そして2015年3月、彼はレスター大聖堂で荘厳な再埋葬を迎え、約530年の時を経てようやく安らかな眠りについたのです。