中東における文化遺産の保護は、決して容易なことではありません。地政学的な緊張、交通の混乱、遺跡の破壊、そして気候変動など、考古学者たちは数多くの課題に直面しています。そのため、発掘のチャンスが訪れた際には、それを確実につかまなければなりません。ドイツとクルディスタンの合同調査チームは、まさにその好機を逃さず、メソポタミア遺跡の緊急発掘を実施しました。通常はモスルダム湖の水面下に沈んでいるこの遺跡が、深刻な干ばつにより突如として姿を現したのです。
イラク・クルディスタンにあるケムネ遺跡の空撮。モスルダム湖に部分的に水没した古代都市ザヒクの建築物が確認できます。
気候変動がもたらした皮肉な「好機」
約40年前、イラク北部でのモスルダム建設に伴い水没した古代都市が、2022年初頭、水位の急激な低下によって再び姿を現しました。この千載一遇の機会に直面し、同地域で活動するクルド人とドイツ人の考古学者たちは直ちに調査チームを結成し、緊急の救出発掘に取り掛かりました。その努力は見事に報われ、青銅器時代――まだ謎の多いミタンニ帝国が栄えていた時代(紀元前16世紀頃~紀元前1350年頃)――に築かれた要塞化された大規模な都市遺構、さらにアッシリア時代に遡る貴重な楔形文字粘土板が発見されたのです。
チグリス川から現れた古代メソポタミアの都市
1980年代にサダム・フセイン政権下で建設されたモスルダムは、中東有数の巨大な建造物の一つです。イラク北部の都市モスルの北西約40キロメートルに位置し、高さ113メートルの堤体がチグリス川の豊かな水をせき止め、120億立方メートルを超える容量を持つ巨大な人造湖を形成しています。
しかしここ数年、この地域は気候変動だけでなくインフラ上の問題も重なり、深刻な干ばつに見舞われてきました。ダム湖は貯水池として機能しており、2021年末、南部の農地への灌漑を続けるために大量の放水が行われた結果、湖はほぼ干上がってしまいました。こうして、ダム建設時に事前の考古学調査が一切行われないまま水没していた古代都市が再び姿を現したのです。
実は2018年にも、同様の状況下で研究者たちはこの都市の最初の遺構を発掘していました。場所は湖の北側、イラク・クルディスタンのケムネ村付近です。当初の発見から、研究者たちはこの遺跡が、紀元前1550年頃から紀元前1350年頃にかけて北メソポタミアと現在のシリアの大部分を支配したミタンニ帝国の重要な中心地「ザヒク」である可能性が高いと推測していました。
2018年にケムネ遺跡で出土したザヒク王宮の空撮。2022年には再び水中に沈んでいました。 © テュービンゲン大学
時間との闘いとなった緊急発掘
遺跡の再出現は幸運に思えるかもしれませんが、考古学者たちにとってこれは大きな試練でもありました。ダムの水位がいつ元に戻り遺跡を再び覆うのか分からない中、資金調達と発掘体制を急ピッチで整えなければならなかったのです。
調査を主導したクルド人考古学者ハサン・アフマド・カシム(クルディスタン考古学機構KAO代表)、フライブルク大学のイヴァナ・プリズ氏、テュービンゲン大学のペーター・プフェルツナー氏は、共同プレスリリースの中で、2022年1月と2月に新たな建造物を発掘し、都市全体の地図作成まで完了できたことを喜んでいます。
大規模な都市複合体の全貌
かつてザヒクの街はチグリス川を見下ろすようにそびえ立っていました。2018年に、丘の上に築かれた見事な意匠の宮殿の遺構が発見された際、考古学者たちはここが大規模な都市複合体であると予測していました。今年の発掘でその予測は裏付けられました。巨大な城壁と塔からなる要塞施設、工業用複合施設、そして何より、複数階建ての「記念碑的」と評される巨大な倉庫建築が出土したのです。
この倉庫の規模は、膨大な量の物資が保管されていたことを示唆しており、この場所が地域全体の物資集積拠点として機能していた可能性があります。それはすなわち、この遺跡が持っていた重要性を物語っています。
ミタンニ時代の倉庫建築と解釈される大型建物の壁の発掘風景。 © フライブルク大学/テュービンゲン大学/クルディスタン考古学機構(KAO)
ミタンニ帝国とは
紀元前2千年紀、ミタンニ帝国はチグリス川とユーフラテス川の間に広がる上部メソポタミアにおいて、重要な勢力でした。紀元前15世紀から紀元前14世紀半ばにかけて、その版図は地中海沿岸から現在のイラク北東部にまで及びました。帝国の中心部は現在のシリア北東部にあったと考えられていますが、首都ワシュカンニの所在地は今なお確定していません。
エジプトのテル・エル・アマルナ(古代アケトアトン)遺跡から出土した有名な楔形文字文書「アマルナ書簡」(主にアッカド語で記された粘土板)によれば、ミタンニの王たちは当時、エジプトのファラオやヒッタイト、バビロニアの大王たちと対等な立場で外交を行っていました。ミタンニ王トゥシュラッタは、自らの娘をファラオのアメンホテプ3世に嫁がせたことでも知られています。
しかし紀元前1350年頃になると、ミタンニは政治的重要性を失い、王国は次第に隣接するヒッタイトとアッシリアの支配下へと落ちていきました。
地震が遺跡を守った
発掘中に撮影された多くの写真が示すように、ザヒクの建物はすべて日干しレンガ(泥レンガ)製でした。それゆえ、40年間も水中にあったにもかかわらず、これらの壁が驚くほど良好な状態で残っていたことに、考古学者たちは驚きを隠せませんでした。
研究チームは、紀元前1350年頃にこの都市を破壊した地震の際、崩落した建物の上部構造が下部の遺構を覆い、保護する役割を果たしたと考えています。つまり、災害そのものが結果的に遺跡を保存することになったのです。
ミタンニ時代の倉庫建築の壁は、高さ数メートルにわたって部分的に保存されていました。 © フライブルク大学/テュービンゲン大学/クルディスタン考古学機構(KAO)
100点の楔形文字粘土板
ミタンニ帝国が既に衰退期に入っていた頃に起きた破壊の後、ザヒクの遺跡はアッシリア人によって占拠されました。研究者たちはその証拠として、5つの陶器容器を発見。その中には約100点の楔形文字粘土板が収められており、いくつかは今も粘土の封筒(外装)に包まれたままの状態でした。
ペーター・プフェルツナー氏にとって、この発見は奇跡以外の何ものでもありません。日干しレンガの壁と同様、焼成されていない粘土でできた粘土板は、本来なら湖の水に溶けて消えてしまうはずだったからです。
粘土板の一部は手紙である可能性があり、学者たちはそこから、帝国末期およびアッシリア支配初期に関する情報が得られることを期待しています。直接の史料が乏しいため、古代近東において非常に重要な存在でありながら、ミタンニ王国の歴史と組織については依然としてほとんど分かっていないからです。
中期アッシリア時代(紀元前1350年~1100年頃)の陶器容器の一つ。楔形文字粘土板が収められており、一部は本来の粘土外装のまま残っていました。 © フライブルク大学/テュービンゲン大学/クルディスタン考古学機構(KAO)
再び水没へ──保護のための措置
なんというジレンマでしょう。貴重な発見が驚くほど良い状態で保存されていることが分かった今、研究者たちは、水中で過ごす一日ごとに、発掘された脆弱な粘土の壁や未発見の遺構が損傷を受けるリスクがあることを悟りました。
そこで、発掘された遺跡部分全体が密閉性のあるプラスチックシートで覆われ、小石で固定されました。間に合ったのは良いタイミングでした。まもなく、モスルダムの水が再び押し寄せ、ミタンニの古代の栄華を水底へと沈めたのですから。
調査チームの作業完了後、発掘された遺構はモスル貯水池の水位上昇から守るためプラスチックフィルムで覆われました。 © フライブルク大学/テュービンゲン大学/クルディスタン考古学機構(KAO)