歴史クイズ

アドルフ・ヒトラーに関する演習問題|解答・解説付き

はじめに

本演習では、ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーに関する重要な歴史的事項を、大学入試レベルの選択問題を通じて確認します。『我が闘争』に示された思想、青年期のウィーン時代、政権獲得の経緯、そしてホロコーストという悲劇的な帰結まで、各問題の解説とあわせて学べる構成となっています。

問題1

(マッケンジー)「[…]価値の異なる二つの存在が交わると、その結果は両親の価値の中間に位置づけられる[…]このような混合は、存在の水準を高めようとする自然の意志に矛盾する。この目的は、異なる価値を持つ個人の結合によって達成できるものではなく、最高の価値を体現する者たちによる完全かつ決定的な勝利によってのみ実現される。最強者の役割は支配することにあり、自らの偉大さを犠牲にして弱者と融合することではない。」(アドルフ・ヒトラー)

著書『我が闘争(Mein Kampf)』の中で、ヒトラーは次のどのような主張を展開したでしょうか。

a) 純粋な血統を守るべきだという考えが、他民族の支配と排除、そしてドイツの領土拡張を正当化した。

b) 人種主義と権威主義は、「純粋なスラヴ民族の高揚」と「ユダヤ人の抹殺」を擁護するために役立つものであった。

c) 国家社会主義(ナチズム)運動は、反ユダヤ主義や優生学による人種改良を否定していた。

d) ドイツ人が優れ、アーリア人種こそ劣っていたがゆえに、「生存圏(レーベンスラウム)」の獲得が正当化された。

e) アーリア人種優越の神話は、ナチスが国際主義や自由主義を推進するために利用したものであった。

問題2

父の死後、オーストリアの都市リンツ近郊で生まれ育ったヒトラーは、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンへ向かいました。その目的は次のうちどれでしょう。

a) ウィーン音楽学校に入学するため。

b) 帝国近衛部隊の一員となるため。

c) ウィーン美術アカデミーに入学するため。

d) 経済学と社会学を学ぶため。

e) フランツ・フェルディナント大公を暗殺するため。

問題3

(FUVEST=サンパウロ大学入試)1930年代初頭におけるヒトラーの政権獲得は、どのような形で実現したでしょうか。

a) ヴェルサイユ条約による屈辱への報復を望むドイツ軍の手によって。

b) ナチ党の準軍事組織を先頭とするクーデターによって。

c) ナチスと共産党との同盟の結果として。

d) ヒンデンブルク大統領に連立政権の首班として指名されたことによって。

e) ムッソリーニの「ローマ進軍」と同様の大規模な動員によって。

問題4

ヒトラーが理想としたドイツ第三帝国の建設を掲げたナチスの世界支配構想は、最も悲惨な帰結をもたらしました。それは次のうちどれでしょう。

a) 原子爆弾「リトルボーイ」と「ファットマン」の製造。

b) ホロコースト。

c) ドイツへのシャリーア(イスラム法)の導入。

d) チェルノブイリ原子力発電所の爆発事故。

e) ベルリンの壁の建設。

解答と解説

問題1:正解はA

『我が闘争』の中でヒトラーは、後のナチス・ドイツ体制を支える思想の基礎を築きました。その中核を担ったのが優生学的な発想、すなわち「ある人種は他よりも優れている」という観念です。ヒトラーの思想によれば、「白人たるアーリア人種」は、「退廃的」とみなされた他の人種に打ち勝つべきだとされました。この歪んだ人種観こそが、他民族の支配・排除、戦争、そしてホロコーストへとつながっていったのです。

問題2:正解はC

20世紀初頭、水彩画家を志していたヒトラーは、ウィーン美術アカデミーへの入学を目指して同市へ移りました。しかしその受験は失敗に終わり、彼は絵葉書の画家として働きながらウィーンでの生活を余儀なくされました。この時期のウィーンでの経験が、後の彼の思想形成に少なからず影響を与えたと言われています。

問題3:正解はD

当時のドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクは、深刻な政治的混乱の中で、1933年、ヒトラーを共和国の首相(ライヒ首相)に任命せざるを得なくなりました。1934年にヒンデンブルクが死去すると、ヒトラーは行政権のすべてを自らの手に集中させ、ドイツ国家の唯一の指導者(総統)となったのです。

問題4:正解はB

「ホロコースト」または「ショアー(Shoah)」とは、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによって約600万人の人々――その大多数はユダヤ人――が組織的に虐殺された惨劇を指します。犠牲者たちは、ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所に代表される絶滅収容所で命を奪われました。