イングランド内戦(清教徒革命)において、イングランド国王チャールズ1世は、オリバー・クロムウェル率いる議会派(円頂党)に敗れました。
その結果、チャールズ1世は大逆罪に問われて裁判にかけられ、1649年1月30日に処刑されました。現職の君主が自国の法廷で死刑を宣告され、公開処刑されたという、イングランド史上前例のない出来事でした。
ここでは、国王の処罰に至るまでの主要な出来事を時系列でご紹介します。
処刑に至るまでの歩み
1642年:内戦の勃発
1642年8月、チャールズ1世がノッティンガムで王旗を掲げたことで、国王と議会の対立は武力衝突へと発展しました。同年10月のエッジヒルの戦いは、内戦最初の大規模な会戦として知られています。
1643年:スコットランドとの同盟
議会は「厳粛な同盟と盟約」を締結し、スコットランド教会の軍事的支援を取り付けることに成功しました。
1644年〜1645年:戦局の転換点
クロムウェル率いる議会派は、マーストン・ムーアの戦いやネイズビーの戦いといった重要な会戦で相次いで勝利し、戦争の流れを自らに有利なものへと変えました。
1646年5月:国王の降伏
追い詰められたチャールズ1世はスコットランド軍に身を委ねて降伏し、その後、議会側の捕虜となりました。
1647年11月:軍による強制移送
クロムウェルの影響下にあった軍は、議会からチャールズ1世を強制的に引き離し、ハンプトン・コートへ移送しました。
1649年1月:裁判と死刑判決
チャールズ1世は高等法院に引き立てられ、大逆罪などの罪状で裁かれて死刑を宣告されました。国王自身は最後までこの法廷の正当性を認めなかったと伝えられています。
1649年1月30日:公開処刑
チャールズ1世は、ホワイトホール宮殿前で大勢の群衆が見守る中、斬首刑に処されました。
処刑後のイングランド
チャールズ1世の処刑は、イングランドにおける君主制の終焉を象徴する歴史的転換点となりました。その後、イングランドは共和制(コモンウェルス)へと移行し、クロムウェルの指導の下、議会によって国家統治が行われることになったのです。