歴史クイズ

プルマン・ストライキの結果、その後30年の政権と労働政策はどう変わったのか?

プルマン・ストライキとは

1894年にアメリカで発生したプルマン・ストライキは、鉄道車両メーカー「プルマン社」の賃金削減に反対して始まった大規模な労働争議です。ユージン・V・デブス率いるアメリカ鉄道組合(ARU)が全国規模のボイコットを実施し、西部の鉄道輸送はほぼ麻痺状態に陥りました。このストライキに対する政府の対応とその結果は、その後数十年にわたるアメリカの労働政策や政権運営に深い影響を与えることになりました。

政府の対応とその結果

1. 鉄道に対する規制の強化

ストライキを契機として、連邦政府による鉄道規制の必要性が広く認識されるようになりました。1887年の州際通商法に基づき設立された州際通商委員会(ICC)の役割は、その後の法改正を通じて強化され、運賃や料金の設定、事故調査、特定の荷主への差別的取扱いの防止など、鉄道事業全体の監督体制が整えられていきました。

2. 労働者の団結権・交渉権の確立へ

プルマン・ストライキは、労働者が組合を結成し、雇用主と集団的に交渉する権利について、社会全体で本格的な議論を引き起こしました。司法や連邦政府の対応をめぐっては賛否が分かれましたが、この大規模な争議を経て、労働者の組織権と団体交渉権を認める方向へと、法制度も世論も少しずつ動いていくことになりました。

3. ストライキ参加者への救済

長期化したストライキによって生活に困窮した労働者とその家族に対しては、食料や住居といった形での救済措置が講じられました。これにより労働者側の苦しみはある程度和らぎ、単なる治安問題ではなく、社会政策的な視点から労働問題に向き合う姿勢が示されることになりました。

4. 連邦による調停・斡旋体制の整備

労使間の紛争を未然に防ぐ仕組みづくりも進みました。労働行政の整備が進められる中で、連邦レベルの調停・斡旋サービスが設けられ、労使間の対立を話し合いで解決し、大規模なストライキの再発を防ぐことが目指されました。この取り組みは、その後のアメリカの労使関係政策の基礎となっていきます。

5. 労働条件の改善

プルマン・ストライキを経て、鉄道労働者の労働環境は着実に改善されていきました。賃上げ、労働時間の短縮、安全対策の強化などが実現し、労働者本人だけでなくその家族の生活水準向上にもつながりました。

その後30年への影響

さらに、ストライキの収束直後の1894年には、クリーブランド政権のもとで労働者との和解の象徴として「レイバーデー(勤労の日)」が連邦の祝日として制定されました。プルマン・ストライキで露呈した労使対立の激しさは、以降の政権にとって労働問題が無視できない重要な政治課題であることを痛感させ、20世紀初頭の進歩主義時代における各種労働法制の整備へとつながっていったのです。