1854年カンザス・ネブラスカ法
1819年から1860年にかけてアメリカ合衆国を南北分裂へと導いた数々の出来事の中でも、とりわけ決定的な役割を果たしたのが1854年のカンザス・ネブラスカ法です。この法律は、カンザス準州とネブラスカ準州という2つの新しい準州の設置を認めると同時に、ルイジアナ買収地域の北部における奴隷制を禁止していた1820年の「ミズーリ妥協」を撤廃しました。
その結果、奴隷制賛成派と反対派の双方から大量の入植者が新領土へ殺到し、両者の衝突は激化の一途をたどりました。さらにこの法律は、奴隷制の拡大に断固として反対する共和党の誕生をも促すことになります。共和党は1854年に最初の全国大会を開催し、1856年には下院の多数派を掌握するまでに急成長しました。こうしてカンザス・ネブラスカ法は、北部と南部の緊張を一気に高め、最終的に1861年の南北戦争勃発へとつながる最大の要因となったのです。
カンザス・ネブラスカ法が引き起こした具体的な出来事
- 「流血のカンザス」の出現: カンザス準州は奴隷制擁護派と廃奴派が衝突する戦場と化しました。中でも1856年の「ポタワトミー虐殺」では、急進的廃奴論者ジョン・ブラウンらによって奴隷制擁護派の入植者5人が殺害されています。
- 自州党(フリーステート党)の結成: カンザスでの暴力に対抗する形で、奴隷制の準州への拡大に反対する自州党が結成されました。同党は1857年にカンザス議会の主導権を獲得しましたが、奴隷制擁護派の知事はその権威を認めようとせず、混乱は深刻化しました。
- ジョン・ブラウンの台頭とハーパーズ・フェリー襲撃: カンザスでの紛争は、廃奴運動の象徴的存在となるジョン・ブラウンを有名にしました。彼は1859年、奴隷制擁護の拠点だったバージニア州ハーパーズ・フェリーを襲撃します。襲撃自体は失敗に終わりましたが、南北間の緊張をさらに高める結果となりました。
もはや埋めることのできない亀裂
カンザス・ネブラスカ法は、アメリカ史における大きな転換点でした。この法律は、北部と南部の間に修復不可能な亀裂を生み出し、その成立後に続いた一連の出来事は、ついには南北戦争の勃発へと至ることになったのです。