結論から言えば、クレオパトラ7世は敗北後に「エジプトへ帰還した」わけではありません。紀元前31年のアクティウムの海戦で敗れた後、彼女はマルクス・アントニウスと共にエジプトの首都アレクサンドリアへ退きました。アレクサンドリアはもともと彼女が統治するプトレマイオス朝の中心地であり、ここが彼女にとって最後の拠点となりました。
アクティウムの海戦とアレクサンドリアへの撤退
紀元前31年9月、ギリシャ西岸のアクティウム沖で行われた海戦において、クレオパトラとアントニウスの艦隊は、オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)率いるローマ軍に決定的な敗北を喫しました。敗戦後、両者はエジプトのアレクサンドリアへ退却しますが、そこに安住の地はありませんでした。
オクタウィアヌス軍の追撃
勝利を収めたオクタウィアヌスは追撃の手を緩めず、翌紀元前30年にはローマ軍がエジプトへ侵攻し、アレクサンドリアを包囲しました。クレオパトラとアントニウスは城壁の内側に閉じ込められ、次第に追い詰められていきます。
アントニウスの自殺
紀元前30年、包囲されたアレクサンドリアの中で、アントニウスはクレオパトラが死んだという誤報を耳にし、自らの剣で腹を突いて自殺を図りました。瀕死の状態でクレオパトラのもとへ運ばれた彼は、その腕の中で息を引き取りました。
クレオパトラの最期
オクタウィアヌスは当初、クレオパトラに対して身の安全を保障すると約束しました。しかしこの約束は、彼女をローマでの凱旋式に捕虜として引き回すための策略だったとも考えられています。やがてクレオパトラは監視下に置かれ、事実上の幽閉状態となります。
そして紀元前30年8月12日、クレオパトラは屈辱的な凱旋式に晒されることを避けるため、自ら命を絶ちました。伝承によれば、無花果の籠に隠されて運び込まれた毒蛇(アスプ)に腕を噛ませたとされますが、毒薬を用いたという説もあります。
まとめ
クレオパトラは敗北後、国外からエジプトへ「戻った」のではなく、かねてより統治していた首都アレクサンドリアへ退き、そこで最期を迎えたのです。彼女の死をもってプトレマイオス朝エジプトは滅亡し、エジプトはローマの属州へと組み込まれることになりました。古代エジプト王国としての独立は、ここに幕を下ろしたのです。