ウェルキンゲトリクス(Vercingetorix、紀元前72年頃 – 紀元前46年)は、ガリアの強力な部族アルウェルニ族の族長ケルティルスを父に持つ人物です。彼はガリア諸部族とその指導者たちを結集し、ユリウス・カエサル率いるローマ軍を国境外へ押し返そうとしました。これはガリア戦争(紀元前58年~紀元前51年)の終盤にあたります。歴史的にも象徴的にも、ウェルキンゲトリクスは広範なガリア諸民族を統合した最初の指導者の一人として知られています。
わずかな史料しか残らない人物
彼の生涯を伝える同時代の記録はきわめて少なく、しかもそのほとんどが敵対したローマ人によって書かれたものです。中でも最重要なのは、ユリウス・カエサル自身が遠征の過程で書き綴り、アレシア陥落後にまとめ上げた『ガリア戦記』です。
出自と生い立ち
正確な生年は不明ですが、現在のフランス中部オーヴェルニュ地方、クレルモン=フェラン近郊のガリア集落ネモッソス(Nemossos)付近で生まれたと考えられています。父ケルティルスは、当時最も有力なガリア部族の一つであり、伝統的にローマと対立してきたアルウェルニ族の王でした。
当時、キサルピナ・ガリアとナルボンヌはすでにローマ領でしたが、アクイタニアやベルギカなどその他の地域は、規模も力もさまざまなガリア諸部族の領土であり、ローマの支配下にはありませんでした。ヘルウェティイ族は、王オルゲトリクスのもと、ゲルマン系勢力からの圧迫を受けて自らの土地を焼き払った後、サントンジュ方面への大移動を開始し、ガリア戦争の発端において決定的な役割を果たすことになります。
カエサルとの出会い
紀元前58年、ウェルキンゲトリクスはまだ戦闘年齢の若い貴族でした。ユリウス・カエサルはヘルウェティイ族の移住を口実に、ローマ軍団と同盟ガリア部族の兵を率いてガリアへ侵攻します。カエサルの目的は、ガリア諸部族とその指導者たちをローマの権威の下に服従させ、自らの栄光を高めるとともに、伝説的な富を私財として吸い上げることにありました。
この頃、父ケルティルスはガリアにおける「反ローマ派」の主導権を取り戻そうとしましたが、ローマのプロコンスル(属州総督)に捕らえられ処刑されてしまいます。息子ウェルキンゲトリクスは、この時期にカエサルの側近部隊(conturbenales)に加わっていた可能性があり、協力と現地の知識と引き換えに、ローマ式の戦術を学んだとされています。
反乱の旗手へ
紀元前52年、カエサルはウェルキンゲトリクスを「adulescens(青年)」と呼んでいます。これは彼が31歳未満だったことを示唆します(ローマでは31歳になって初めて真の成人とみなされ、公職の第一歩となる選挙に立候補できる年齢とされます)。ブリタンニア遠征からの撤退という小さな挫折と、長年の戦争に疲弊したガリア人の不満を背景に、ウェルキンゲトリクスは父が命を落とした「反ローマ派」の旗印を再び掲げることを決意します。
彼はアルウェルニ族の中で武力によって権力を握り、雄弁さ——ガリア人にもローマ人にも重んじられた弁舌の技——によって「反ローマ派」の頂点に立ちました。そして、地形がゲリラ戦に適したガリアで抵抗運動を組織し、可能な限り多くの部族とその首長たちをカエサルに対抗させる連合の形成に奔走します。
ガリア連合軍の結成
カルヌンテス族の森で開かれた会議でガリア全土蜂起の計画が練られると、ウェルキンゲトリクスはガリアの王や貴族たちの信頼と支持を獲得し、連合軍の指揮官としての地位を確立していきます。ガリアとローマ双方の戦術に通じていたことが大きく寄与しました。
しかし、故郷ネモッソスに戻り血縁による族長の地位を主張すると、父の処刑に関与したとされる伯父ゴバンニティオを筆頭とするアルウェルニの寡頭勢力と衝突し、町から追放されてしまいます。
紀元前52年1月、ついに武装蜂起した彼は、ローマと同盟していたアエドゥイ族(ソーヌ=エ=ロワール県周辺の部族)への影響力行使を試み、中央・東部ガリアの諸民族をプロコンスルに対抗させて統合することに成功します。
焦土作戦とゲルゴウィアの勝利
ウェルキンゲトリクスは「焦土作戦」によって勝利を積み重ねていきます。食料を奪い、補給線のないローマ軍団を飢えさせるという戦略です。しかしカエサルは、焼却を免れた都市アワリクム(現在のブルジュ)を攻略し、さらにゲルゴウィアへ進軍します。
カエサルの卓越した戦略眼と外交手腕により、ローマ軍はガリア部族同士の対立を利用して勝利を重ねます。ボイイ族、レミ族(ランス)、そして長らくアルウェルニ軍への参加をためらっていたアエドゥイ族などが、ローマに物的支援を提供しました。
それでもウェルキンゲトリクスはガリア連合軍を見事に指揮し、複数の勝利を収めます。特筆すべきは紀元前52年6月のゲルゴウィアの戦い(ゲルゴウィア包囲戦)での勝利です。カエサルが北東へ撤退すると、彼はアルウェルニ族の族長の座を回復し、アエドゥイ族をも実力で味方につけることに成功しました。
ビブラクテとアレシアの決戦
『ガリア戦記』によれば、ブルゴーニュ地方モン・ボヴレーのビブラクテの戦いにおいて、ウェルキンゲトリクスはガリア連合軍の最高司令官としての地位を確固たるものにします。ここで史上初めて、ガリア諸民族の大部分が一つに結束しました。彼はカエサルに正々堂々と決着をつけることを望み、自軍の優位を信じていましたが、実際には兵力の半分がまだ到着していませんでした(この残りの部隊が、後のアレシアでの救援軍となります)。
ユリウス・カエサルは新たな軍団の増援を得て、自ら反乱鎮圧に乗り出します。ディジョン近郊でガリア騎兵を打ち破ると、ディジョンの北西60kmにあるアレシアにガリア軍を追い詰め、巨大な二重の防壁を築いて包囲しました。これは要塞内のガリア軍を脱出させず、外部からの救援軍の攻撃から身を守るためのものです(アレシア包囲戦)。
ガリアの救援軍が到着したものの、40日間の包囲で飢餓に苦しむ中、ウェルキンゲトリクスは敗北します。敵の圧倒的な優位性と、共闘経験の乏しい諸部族・指導者たちの足並みの乱れが原因でした。彼は降伏し、自らを囚人として差し出し、アレシアの男女子供8万人の命と引き換えに自分の命を捧げたのです。
残されたガリアの抵抗勢力は、救援軍の指導者ルクテリオスらに率いられ、紀元前51年のウクセロドゥヌム陥落まで戦い続けますが、そこで凄惨な報復を受けました。
最期
ユリウス・カエサルは、ガリア遠征の戦利品としてウェルキンゲトリクスを連行し、ローマでの凱旋式に備えます(これ自体が、アルウェルニ族長の異例かつ極めて重要な地位を物語っています)。彼はマメルティヌス刑務所の地下牢に収監され、紀元前46年8月、ガリア征服の凱旋式が挙行された日に、カエサルの命令により牢内で絞殺されました。
名前の意味するもの
「ウェルキンゲトリクス」という名の意味は今なお謎に包まれています。ローマの歴史家フロルスは「偉大なる戦士たちの偉大なる王」と訳しました。「Ver(ウェール)」は最上級を表す接頭辞、「Cingeto(キンゲト)」は戦士を意味し、「Rix(リクス)」はラテン語のRex(王)に似ています。ただし、ブリトン人の首長にCingétorixという人物がいたこと、またrixという語尾が多くのガリア人名に見られることから、この語尾はラテン語ではなくケルト語起源である可能性が高いとされます。
また、「ウェルキンゲトリクス」は固有名詞ではなく称号である可能性もあります。その場合、「非常に強力な王」あるいは「戦士の超王」を意味することになります。ガリア史には複数の同名の王が存在したことになり、この語を刻んだガリア貨幣が比較的多く出土していることもそれで説明できます。ただし、我々の知るウェルキンゲトリクス自身は、指導者の責任を担う以前から既にこの名を持っていたようです。
記念像と後世の評価
1866年、ナポレオン3世は、ブルゴーニュ地方ディジョンの北西約60kmにあるアリス=サント=レーヌ(アレシアの推定地)に、彫刻家エメ・ミレ制作の高さ7mのウェルキンゲトリクス像を建立しました。台座は建築家ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デュクの手によるもので、次の銘文が刻まれています。
「結ばれしガリア
一つの国家を形作り
同じ精神に駆り立てられれば
宇宙をも畏れることはない」
当時「蛮族の地」とみなされていた土地に文明をもたらした存在としてユリウス・カエサルを敬慕していた皇帝ナポレオン3世は、ガリア諸民族の歴史の再発見と顕彰に貢献しました。しかし、ウェルキンゲトリクスを「侵略者に抗う英雄」「フランス精神の象徴」として本格的に利用したのは第三共和政です。このプロパガンダは、プロイセンを中心に新たに統一されたドイツに1870年に敗北した後、復讐心を煽り、フランス人の愛国心を高めることを目的としたものでした。