バカンスの道中、あるいは国道7号線(N7)の渋滞にはまってしまったとき…。ほっとひと息つけるひとときを過ごしてみませんか。岩山の頂にそびえ立つトゥルノン城(シャトー・ド・トゥルノン)は、その起源が9世紀にまで遡る、北アルデーシュ屈指の美しい城です。現在残されている建物は14〜15世紀のもので、トゥルノン伯家の居城として栄えました。今日では「フランスの博物館」に指定され、1階では城とトゥルノン家の歴史を、2階ではローヌ博物館および企画展を見学することができます。
トゥルノン城の歴史
トゥルノン城はローヌ渓谷を見下ろす位置に建っています。もともとは川が城の足元まで達していたため、トゥルノン家はそこに関所(通行税徴収所)を設け、その収益によって城の拡張と富の蓄積を進めてきました。この街には聖王ルイ、フランソワ1世、カトリーヌ・ド・メディシスなど歴史上の人物が訪れましたが、一方でフランソワ1世の長男が亡くなった地でもあります。
トゥルノン家はきわめて重要な一族であり、その中にはフランス宮廷で高位の地位に就いた者も少なくありませんでした。
フランソワ・ド・トゥルノン枢機卿は傑出した人物でした。政治家であると同時に聖職者でもあり、40歳のとき(1530年)に枢機卿に任じられ、さらにフランソワ1世の大臣をも務めました。1525年のパヴィアの戦いでの敗北後には、捕らわれた国王の釈放交渉を担っています。このユマニストは、イタリア・ルネサンス真っただ中のローマに大使として赴き、同時代の芸術家たちと交流しただけでなく、コレクション充実のために絵画を買い求めたり、ジョヴァンニ・カパッシーニといったイタリア人芸術家を連れ帰ったりもしました。1555年に制作された「復活」を主題とする大型三連祭壇画は、伯爵家の私礼拝堂に飾られています。さらに枢機卿はこの町にも大きな足跡を残しました。1536年、彼はここに地方初のコレージュ(中等教育機関)を創設したのです。これは現在もガブリエル・フォーレ高校として使われ続けています。
クロード・ド・ラ・テュール・デュレンヌもまた、城の拡張と美化に大きく貢献した伯爵夫人の一人です。王妃マルグリット(女王マルゴー)の侍女を務めた彼女は、ジュスト2世ド・トゥルノンの妻であり、市立病院の創設者でもありました。加えて、プロテスタントの攻撃から城を守るための防壁の構築や南テラスの整備も進めました。
もう一人、印象深い一族の成員が、クロードの娘エレーヌ・ド・トゥルノン(1559〜1577)です。「胸の病(失恋)」によって悲劇的な死を遂げた彼女の物語は、シェイクスピアの『ハムレット』をはじめ、現代の芸術家たちにもインスピレーションを与えたといわれています。
城の放置と修復
1644年、トゥルノン家最後の一員であるジュスト・ルイ2世ド・トゥルノンが戦闘で亡くなりました。後継者がいなかったため、城は先祖の子孫にあたるマルグリット・ド・モンモランシーへと受け継がれますが、80歳だった彼女が城を訪れることはありませんでした。
次第に放置され、財産やコレクションを奪われていった城は、1670年から牢獄として使われるようになり、フランス革命期には盛んに利用されました。当時の囚人の痕跡は、ボールガール塔の壁に残された落書きや、窓のくぼみに残る傷跡として、今日でも見ることができます。
1794年に火災に遭った城は、1809年に自治体の所有となり、1881年には14世紀の主棟に民事裁判所が設置されました。この際、中庭から建物を見た場合の中世的な面影は取り払われることになります。1926年に牢獄が閉鎖され、翌1927年にはファサードと屋根が歴史的建造物に指定されました。そして1928年、ローヌ博物館の開館により、一般の人々もこの場所を訪れられるようになったのです。
トゥルノネ地方出身の作家ガブリエル・フォーレらによる修復への尽力もあり、1938年と1960年には内部の部屋と16世紀の入口扉が歴史的建造物に追加指定されました。20世紀末には階段や屋根の修復工事、応接室の整備も行われています。裁判所は2009年に閉鎖され、現在は展示ホールとして活用されています。
ローヌ博物館
当初は城の礼拝堂に置かれていたローヌ博物館は、1928年に開館し、現在は建物の2階に設置されています。5つの展示室では、橋梁や舟運、あるいはこの街とアルデーシュにゆかりのある地元芸術家たちに関するコレクションを紹介しています。
マルク・セガン橋
博物館の一室に展示されているのは、ローヌ川に架かった最初の吊り橋「マルク・セガン橋」です。1823年から1825年にかけて、アノネー出身の技術者マルク・セガンとその兄弟たちによって、自費で建設されました。というのも、通常であれば橋の建設資金を負担する企業側が、ローヌ川の激流に耐えられないのではないかと恐れたためです(ローヌ河会社CNRの事業以前、この川は数多くの橋を押し流してきました)。しかし予想に反して橋は持ちこたえます。これにはいくつもの技術的革新が盛り込まれていたのです。一つは中央橋脚に用いられたコンクリートで、トゥルノンの南約70キロにあるル・テイ産の水硬性コンクリートは、水中でも乾燥・硬化する特性を持っていました。もう一つは画期的なケーブルシステムで、これにより橋はきわめて高い強度を備え、ローヌ川の水位変動にも対応できるようになったのです。
ところが今日、トゥルノンの岸壁沿いを歩いても、マルク・セガン橋を見ることはできません。船の航行に支障をきたすほど低かったため、1965年に解体されたのです。この解体はトゥルノンの人々にとって大きな衝撃となりました。住民たちは街中を葬列のように歩き、ローヌ川に花輪を投げ入れ、橋のあった場所には記念板が取り付けられました。その板は今も城の足元に見ることができます。
舟運の歴史
2つ目の部屋に展示されたコレクションは、船頭たちの時代から蒸気船の時代まで、ローヌ川の舟運の変遷をたどります。今ではめずらしくなった地域の貴重な遺産であり、特筆すべきは4基の「船頭の十字架」が保存されていることです。
船頭たちは16世紀から曳航(ひきふね)の仕事に従事していましたが、ローヌ川の気まぐれに翻弄され、事故に遭うことも少なくありませんでした。それゆえ彼らの信仰はとりわけ篤いものでした。彼らは船上に、高さ50cmから1.5mにも及ぶ大型の十字架を掲げました。キリスト受難の道具(アルマ・クリスティ)で精緻に彫刻・装飾されたもので、船頭たちなりの個性として、頂部に自分たちの船が描かれ、同業組合の名が添えられている点も特徴です。
この部屋では意外なものにも出会えます。たとえば1840年の「グラップ(掴み舟)」の模型です。ローヌ川の舟運は状況に合わせて新しい船型を生み出してきました。細身で異様に長いことから「ウナギ」と呼ばれた船もその一つですが、操縦性に難がありました。そこで考案されたのが「グラップ」と呼ばれる別タイプの船です。川底に食い込む車輪によって船体を安定させ、激流に耐えられるようにしたものでした。
地元の芸術家たち
さらに3つの部屋が地元の芸術家に捧げられています。ローヌ川をテーマにした19世紀から現代までの絵画ギャラリーには、マックス・モニエ・ド・ラ・スズランヌの作品などが並びます。マルセル・ジモン(1894〜1961)の専用室では、マイヨールとルノワールに学び、同時代人の「胸像」や「肖像」で名を馳せた彫刻家の仕事を鑑賞できます。最後の部屋はアルデーシュの知的遺産、とりわけ出版人にして詩人のシャルル・フォロと「鳩小屋の友」に捧げられており、ジャン・シエーズの手になる装飾で彩られた彼らの作品は、今日では非常に貴重なものとなっています。
観光案内
トゥルノン城博物館
14 place Auguste Faure
07300 トゥルノン・シュル・ローヌ
敷地の麓に木陰の駐車場あり