白人の公民権活動家ヴィオラ・グレッグ・リウッツォ(1925年〜1965年)は、1965年、アフリカ系アメリカ人の投票権を求める「セルマからモンゴメリーへの行進」に参加しました。しかし彼女は、クー・クラックス・クラン(KKK)のメンバーによって暗殺されることになります。
貧しい幼少期
父は鉱山労働者で第一次世界大戦の従軍経験を持つヘバー・アーネスト・グレッグ、母は教師のエヴァ・ウィルソン。ヴィオラ・フォーヴァー・グレッグは1925年4月11日、アメリカ・ペンシルベニア州の小さな町カリフォルニアで生まれ、5歳年下の妹ローズ・メリーとともに育ちました。
ヘバーは勤務先の鉱山での爆発事故により右手を失います。世界恐慌の時代、一家は母エヴァの収入だけに頼らざるを得ませんでした。ピッツバーグ大学の教員免許を持っていたにもかかわらず、彼女が得られたのは断続的な契約のみ。家族は次第に貧困へと転落し、エヴァが職を見つけたテネシー州チャタヌーガへ移住することになります。
極めて貧しい暮らしの中で、グレッグ家は水道もない一部屋の粗末な家に住み、ヴィオラの通う学校も人材も設備も不足していました。しかし、人種隔離が色濃く残るこの南部の州で、彼女は自らの家族が貧しいながらも、アフリカ系アメリカ人の家庭と比べればいかに恵まれた立場にあるかに気づきます。この発見と差別の実体験こそが、後の活動家としての道を歩む土壌となったのです。
結婚と子育て
1941年、グレッグ一家はアメリカ中西部ミシガン州のイプシランティに移り住みます。第二次世界大戦の真っ只中、ヘバーはフォード・モーター社の爆弾製造の仕事を得ました。16歳のヴィオラは高校を中退して駆け落ち同然に結婚しますが、1年以内に離婚して実家へ戻ります。2年後、一家はデトロイトへ引っ越しました。当時のデトロイトは深刻な人種分離が存在し、白人と黒人の緊張が高まり、散発的な暴力や暴動が起こっていました。こうした出来事は、ヴィオラの平等に対する信念をさらに強めることとなります。
1943年、ヴィオラはジョージ・アルギリスと再婚し、ペニーとエヴァンジェリン・メリーの2人の娘をもうけます。1949年に離婚した後、トラック運転手組合(チームスターズ)の代理人だったアンソニー・リウッツォと再婚し、トミー、アンソニー・ジュニア、サリーの3人の子供が生まれました。子育てをしながら、ヴィオラは学業に戻ることを決意し、デトロイトのカーネギー研究所、続いてウェイン州立大学に進学します。
信念を貫いた女性
幼少期から青年期にかけて目の当たりにしてきた出来事にとどまらず、ヴィオラ・リウッツォが公民権運動に関わるようになった大きなきっかけの一つは、食料品店で出会った黒人女性サラ・エヴァンスとの深い友情でした。1964年、ヴィオラはデトロイトのファースト・ユニテリアン・ユニバーサリスト教会に通い始め、全国有色人種地位向上協会(NAACP)に加入します。1909年にアイダ・B・ウェルズやW.E.B.デュボイスら活動家たちによって設立されたNAACPは、公民権擁護を掲げる団体です。平等への揺るぎない思いを抱いたヴィオラは集会に足を運び、抗議行動の企画にも力を注ぎました。
信念の持ち主であったヴィオラは、生徒の退学を容易にするデトロイトの法律にも反対します。抗議の意思表示として、自分の子供2人――トーマスとアンソニー――を学校から引き取り、州法に違反する形でホームスクーリングを実践したのです。その結果、彼女は逮捕され、罰金を科され、1年間の停職処分を受けました。
セ ルマからモンゴメリーへの行進
1965年、アメリア・ボイントン・ロビンソンと夫サミュエル・W・ボイントンをはじめとする黒人活動家たち、そしてマーティン・ルーサー・キング博士の呼びかけにより、投票権を求め、活動家ジミー・リー・ジャクソンの殺害に抗議する「セルマからモンゴメリーへの行進」が計画されました。最初の行進は数キロ進んだところでエドマンド・ペタス橋にて警察と敵対的な群衆に阻止され、容赦なく排除されて約70人が負傷しました。
「血の日曜日」と呼ばれる映像、そして警官の暴行で倒れ込むアメリア・ボイントン・ロビンソンの姿は、世界中に衝撃を与えます。憤りを覚えたヴィオラ・リウッツォは大学での抗議デモに参加し、あらゆる宗教の善良な黒人と白人に協力を呼びかけるキング博士の声に耳を傾けました。彼女は夫に電話をかけ、行進に加わりセルマへ向かう決意を伝えます。「君の戦いではない」と反対するアンソニーに対し、彼女はこう答えました。
「これはすべての人の戦いよ」
ヴィオラは行進の運営に携わり、ボランティアの勧誘や、空港や駅から参加者を自家用車で移送する役割を担いました。1965年3月21日、彼女はあらゆる人種、階級、宗教の人々約3,000名と合流し、行進を開始します。続く5日間、彼女は歩きながら、運営の手伝いや救護活動にも参加しました。そして3月25日、25,000人とともにモンゴメリーで行われたキング博士の演説に立ち会います。キング博士はこの行進を「アメリカ史における輝かしい瞬間」と語りました。
暗殺
行進の終了後、ヴィオラ・リウッツォは19歳のアフリカ系アメリカ人青年リロイ・モートンとともに、モンゴメリーからセルマへ参加者やボランティアを送り届ける任務に就きました。国道80号線を走行中、一台の車が彼らを路外へ押し出そうとします。モンゴメリーへ一度戻った後、ヴィオラとリロイは再びセルマへ向かいました。ガソリンスタンドに立ち寄った際、二人は人種差別的な罵倒の言葉を浴びせられます。
ヴィオラが信号待ちをしていたとき、KKKのメンバー4人を乗せた車が横につけました。白人女性が黒人男性と同乗しているのを見た彼らは、20分間にわたって執拗に追跡します。追いついた彼らはヴィオラの頭部を2発撃ち、彼女は即死しました。血まみれになったリロイは奇跡的に無傷でしたが、犯行確認のため近づいてきたKKKメンバーの前では死んだふりをしてやり過ごします。彼らが去った後、リロイは逃走し、レオン・ライリー牧師の運転するトラックに助けを求めることができました。
ヴィオラはミシガン州サウスフィールドのホーリー・セパルカー墓地に埋葬されました。NAACPの多くのメンバー――マーティン・ルーサー・キング博士も含まれています――や政府関係者が、デトロイトのインマキュレイト・ハート・オブ・マリー・カトリック教会で営まれた葬儀に参列しました。しかしその2週間後、KKKによる威嚾行為である焼け十字架が、ヴィオラの家を含むデトロイト市内の4軒の住宅の前に立てられる事件が発生したのです。
殺人犯たちの裁判
殺害現場の車に同乗していたKKKのメンバー4人――コリー・ウィルキンス(21歳)、ゲイリー・ロウ(34歳)、ウィリアム・イートン(41歳)、ユージーン・トーマス(42歳)――はほどなくして逮捕されました。わずか24時間以内に、リンドン・B・ジョンソン大統領が全国放送のテレビで彼らの逮捕を公表しています。
ところがゲイリー・ロウは、アメリカ国内の政治組織を標的とするFBIの諜報プログラム「COINTELPRO(コインテルプロ)」の情報提供者であることが明らかになります。ロウの逮捕後、COINTELPROはヴィオラ・リウッツォの名誉を傷つけるための噂を流布し、彼女を共産党員であるとか、家族を捨てて黒人民権活動家と不倫するためにセルマへ来たのだなどと中傷しました。裁判では、ロウが証人として証言台に立つことになります。
4月、コリー・ウィルキンス、ウィリアム・イートン、ユージーン・トーマスの3人はヴィオラ殺害の罪で起訴されます。しかし5月、白人だけで構成された陪審員は評決に至らず、審理は物別に。10月には別の白人陪審員がウィルキンスを無罪としたのです。その後の連邦裁判では、3人は陰謀罪および銃器法違反で有罪となり、懲役刑を宣告されました。ウィリアム・イートンは1966年3月、刑務所に収監されぬまま心不全で死亡。一方、最初の無罪判決を覆すことはできなかったものの、ユージーン・トーマスは結局6年間を刑務所で過ごすこととなりました。