アメリカの海洋生物学者にして作家、レイチェル・カーソン(1907年~1964年)は、農薬、とりわけDDTの過剰使用がもたらす危険性をいち早く警告した先駆者の一人です。
読書好きな少女時代
レイチェル・ルイーズ・カーソンは、1907年5月27日、アメリカ北東部ペンシルベニア州スプリングデール近郊の家族経営の農場で、保険外交員ロバート・ウォーデン・カーソンとマリア・フレイジャーの娘として生まれました。自然への好奇心旺盛な少女だった彼女は、自由な時間を使って農場周辺の野原や森を探索し、生き物を観察することに夢中になったといいます。
同時に彼女は読書家でもあり、ビアトリクス・ポターやハーマン・メルヴィル、ロバート・ルイス・スティーヴンスンの作品を貪るように読みました。8歳からは動物を主人公にした物語を書き始め、10歳の時には短編の一つが児童誌『セント・ニコラス・マガジン』に掲載されています。
パーナサス高校を卒業したレイチェルは、女性向けの高等教育機関であるペンシルベニア女子大学(現在のチャタム大学)に進学します。文学への愛と科学への好奇心の間で揺れながら、当初は英語を専攻していましたが、やがて生物学へと転向しました。1928年に卒業した後は、ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で動物学と遺伝学の研究を続け、学費を稼ぐためのアルバイトを掛け持ちしながら学び、1932年、25歳で課程を修了しています。
米国水産局でのキャリア
博士号取得を目指していたレイチェルでしたが、家計の苦しい状況から大学を離れ、教師として働くことを余儀なくされました。その傍ら、米国水産局が一般向けに放送していた科学ラジオ番組「ロマンス・アンダー・ザ・ウォーターズ」の台本執筆を担当するようになります。番組のための調査は、地元紙に掲載される海洋生物に関する記事にも結実し、これらの文章は番組とともに一定の評判を得ました。
1936年、公務員試験に合格したレイチェルは、米国水産局に海洋生物学者補として採用された2人目の女性となります。業務は、魚類の個体群データの分析といった科学的な側面と、パンフレットや記事の執筆を通じて科学を広める側面の両方を担うものでした。安定した職を得たものの経済状況は依然として厳しく、1935年の父の死、さらに1937年の姉の死によって、母と二人の姪の生活を一人で支える重責を背負うことになりました。
『われらをめぐる海』の大成功
1941年、水産局のパンフレット草稿をもとに長年書き溜めてきた原稿をまとめ、レイチェルはサイモン&シュスター社から処女作『海風の下で』を出版します。海の生き物たちの行動と暮らしを、彼ら自身の視点から描いたこの本は、売れ行きこそ伸び悩んだものの、批評家からは絶賛を受けました。
1945年頃、彼女は第二次世界大戦以降、農薬として広く使われていた化学物質DDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)に関心を持ちます。しかしこの時点では編集者たちの関心を引くことができず、彼女は他の執筆プロジェクトに取り組みました。1949年には、米国水産局から改組された米国魚類野生生物局の刊行物責任者に就任しています。
その翌年、前作の続編となる『われらをめぐる海』を出版。海洋の生命の仕組みを描いたこの本は、今度は圧倒的な成功を収めます。ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに86週間にわたってランクインし、全米図書賞やジョン・バローズ・メダルを受賞しました。映像化権も買い取られますが、完成したドキュメンタリーに満足できなかった彼女は、二度と映像化を許可することはありませんでした。処女作も再版されてようやく売れ始め、ようやく経済的に安定したレイチェルは1952年に職を辞め、執筆業に専念することになります。
環境保護への目覚め
1955年には、海をテーマとした三部作の第三巻『海辺』を出版し、アメリカ東海岸を中心とした沿岸の生態系を描きました。1957年には、二人の姪のうちの一人が亡くなり、5歳の孤児が残されます。レイチェルはその少年を養子に迎え、母親とともに世話をするためメリーランド州へ移り住みました。
執筆やテレビ番組の企画などの傍ら、科学ライターとしてのレイチェルは次第に生態学へと関心を深めていきます。環境保護団体に加わり、新しい出版プロジェクトを構想し、自然への脅威に対抗する活動にも力を注ぐようになりました。やがて彼女の関心は、ファイアーアント(アカカミアリ)駆除などをめぐって大量に散布される農薬の問題へと集中していきます。
『沈黙の春』とDDT
ファイアーアントの駆除のため、農務省の根絶プログラムでは、公有地・私有地を問わずDDTなどの農薬を航空機から大規模に散布することが行われていました。これに対し、ロングアイランドをはじめとする各地の土地所有者が散布を拒否して法的措置に訴えるなど、対立が深刻化していきました。
こうした中、環境団体ナショナル・オーデュボン協会は、散布の実態とその環境への影響を調査するため、レイチェルに依頼します。彼女は膨大な資料を読み込み、科学者たちの研究論文を収集し、インタビューを重ね、医学研究者とも面会し、科学者たちとの人脈を通じて機密情報まで入手しました。そして1959年、ワシントン・ポスト紙に、農薬の大量使用と鳥類個体数の減少を結びつける記事を発表します。
翌年、研究と執筆を進めていたレイチェルは乳がんと診断され、手術を受けることになります。その後も健康上の問題が作業を遅らせましたが、1962年、ついに『沈黙の春』が出版されました。農薬、とりわけDDTが生物多様性や人体に及ぼす有害な影響を告発したこの本は、人間が環境に与える負の影響を鋭く指摘するものでした。ただし彼女はDDTの全面禁止を求めたわけではなく、農薬の責任ある使用と有機的なアプローチへの転換を訴えたのです。
反対派からの圧力にもかかわらず、本は予定通り出版されました。強い抵抗を受けたものの、レイチェルはすべての章について専門家の助言を受けており、学界の大多数や一般市民の多くが彼女を支持しました。論争は全国規模へと拡大します。翌1963年、彼女はケネディ大統領の科学諮問委員会で証言し、続いて上院の小委員会でも意見を述べました。健康状態が急速に悪化し休息を必要とする身でありながら、講演やテレビ出演を続けたのです。
死後の影響
1964年、がんと放射線治療で弱っていたレイチェルは呼吸器のウイルス感染にかかり、4月に56歳でこの世を去りました。しかし彼女の残した業績、とりわけ『沈黙の春』は、環境保護運動や環境団体に計り知れない影響を与え続けています。
アメリカでは1970年に環境保護庁(EPA)が設立され、1972年にはDDTが段階的に禁止されました。