歴史上の人物

65. シムラー会議への参加を機に釈放されたパテル

65. シムラー会議への参加を機に釈放されたパテル

1945年、新副王ウェーヴェルの登場

1945年5月、インドの総督兼副王の座に、リンリスゴー卿に代わってウェーヴェル卿が就任しました。彼はインド問題の解決へ向けて新たな取り組みを開始します。しかし、当時のインドを取り巻く状況はきわめて複雑でした。インド国民会議派は、イギリス人が現状のままただちにインドから去ることを求めていました。一方、ジンナー率いる全インド・ムスリム連盟は、独立に先立ってインドを二分割し、ムスリムのための独立国家「パキスタン」を創設することを主張していました。さらにアンベードカル博士は、不可触民(ダリット)の人々が独立インドにおいて正当な地位を与えられるべきだと訴え続けていました。そしてイギリス側は、完全な独立ではなく、自治領(ドミニオン)としての地位をインドに与えることを望んでいたのです。

自治領(ドミニオン)の地位とは何か

自治領(ドミニオン)の地位とは、内政に関しては完全に自主独立であるものの、国際的にはイギリス国王を長とする英連邦(コモンウェルス)の一員であり続けるというものでした。しかし、インド国民会議派はすでに1929年12月31日に「プールナ・スワラージ(完全独立)」決議を採択していたため、「自治領」という言葉を聞くだけで強い反発を示していました。こうして各勢力がそれぞれの主張を譲らず、インド独立への道はなかなか開けなかったのです。

疲弊する大英帝国の事情

当時のイギリスは、まるで二つの頭を持つ蛇のように振る舞っていました。第二次世界大戦で若者を大量に失ったイギリスには、インドという広大な国でコレクター(地方長官)やコミッショナー(行政委員)を務めさせるイギリス人青年がもはや足りず、テシルダール(徴税官)のポストまでイギリス人で埋める余裕さえありませんでした。かつてイギリスの青年たちがインド統治のために海を渡ってきた船に、石炭を積む費用すらイギリスには残されていなかったのです。

それゆえイギリスは、何とかインドの独立問題を宗教対立(共同体問題)に絡ませて引き延ばし、あと数年でもインドを支配し続けて、自国の窮乏を解消しようとしていました。

シムラー会議の開催と指導者たちの釈放

新副王ウェーヴェルは、暫定政府の樹立について協議するため、1945年6月25日にシムラー会議の開催を呼びかけました。これに伴い、パテルをはじめとする投獄中のインド国民会議派の指導者たちがすべて釈放されました。ガンディーは病気を理由に、それに先立つ1945年5月6日に釈放されています。

会議をめぐる両陣営の主張は真っ向から対立していました。インド国民会議派は、自分たちはヒンドゥー教徒・シーク教徒およびその他の宗教の人々を100%、さらにはムスリムの90%をも代表していると考えていました。一方、ムスリム連盟は、連盟こそが国内ムスリムの90%の支持を受けていると確信していました。ジンナーは「ムスリムを代表できるのはムスリム連盟だけだ」と繰り返し主張しました。

これに対しガンディーは、「インド国民会議派はヒンドゥー教徒とムスリムの双方を代表している」と反論しました。ガンディーはシムラー会議に、インド国民会議派の代表としてマウラーナー・アブル・カラーム・アーザードを参加させています。

しかしジンナーは、暫定政府におけるムスリム代表は4名のみとし、しかもその4名はすべてムスリム連盟から選出されなければならないと強硬に主張しました。これは事実上、インド国民会議派にはヒンドゥー教徒の代表を選ぶ権利しか認めないという姿勢でした。結局、このジンナーの頑迷な態度によって、シムラー会議は失敗に終わったのです。