歴史上の人物

ドブラワ(Doubravka)―ミェシュコ1世の妃としてポーランドのキリスト教化を導いたボヘミアの公女

ドブラワ(Doubravka)―ミェシュコ1世の妃としてポーランドのキリスト教化を導いたボヘミアの公女

ヤン・マテイコ筆によるドブラワの肖像。

ドブラワ(Doubravka)とは

ドブラワはピャスト朝の公妃であり、ポーランド最初の君主ミェシュコ1世の妻として知られる人物です。935年頃に生まれたとされ、父はその残虐さで名高いボヘミアの支配者ボレスラフ1世(「残酷公」)でした。兄や妹ムラダが読み書きのできる教養人であったことから、ドブラワ自身も高度な教育を受け、文字を読めたものと推を読めたものと推測されています。また一部の歴史家は、若い頃に父の政治的パートナーとなる人物と結婚していた可能性も指摘しています。

965年、おそらく未亡人あるいは離婚者として、彼女は大ポーランドの異教徒の君主ミェシュコ1世と結婚しました。当時30歳前後だったとみられますが、10世紀のラテン文化圏の基準では決して高齢ではありません。チェコの歴史家コスマスはドブラワが「年老いていた」と記していますが、この言及は根拠のない中傷か単なる誤りと見なすべきでしょう。

諸史料が一致して伝えるところによれば、夫を洗礼へ導いたのはドブラワ自身であり、そのために欺瞞や強要に近い手段まで用いたといいます。967年には一人息子ボレスワフ(後の「勇敢王」ボレスワフ1世)を出産しました。そして977年、死因不明のままこの世を去ります。一つの仮説によれば、遺体はポズナンにあるミェシュコの宮殿内礼拝堂の床下に葬られたとされます。

ポーランド国家への影響

ドブラワは国家の生活、とりわけキリスト教化において積極的な役割を果たし、夫に対して大きな影響力を持っていたと考えられます。唯一の伝記を著した歴史家カミル・ヤニツキによれば、ミェシュコは妻を通じて、義父ボレスラフ1世が用いていた軍事戦術を吸収し、ドイツ宮廷の作法にも精通するようになりました。これにより彼は神聖ローマ帝国の「皇帝の友人」の地位を獲得し、その立派な風貌を年代記作者ティートマールに称賛されるまでになったのです。

また、起源をドブラワの時代に持つサンドミエシュの町は、その名が明らかにチェコ由来であることから、公妃との深い関わりが推測されています。さらに興味深いことに、「イタリア野菜」と総称される野菜類がポーランドに伝わったのは、数世紀後のボナ・スフォルツァの時代ではなく、ドブラワの随行者や最初の宣教師たちとともだった可能性も指摘されています。

ドブラワはいわば平和の保証人でもありました。彼女の死後になって初めて、ミェシュコはチェコとの武力衝突に踏み切り、その結果シレジアと小ポーランドが占領されることになります。

名前の表記をめぐる論争

公妃の名の表記については今なお議論が続いています。「ドブラワ(Dobrawa)」という形のほかに、「ドンブルフカ(Dąbrówka)」という変形も広く使われています。