1940年のハイドリヒ(写真:Bundesarchiv, Bild 146-1969-054-16, Hoffmann, Heinrich、ライセンス CC-BY-SA 3.0)
ナチス・ドイツの権力者、ラインハルト・ハイドリヒとは
ラインハルト・ハイドリヒ(1904年~1942年)は、ドイツのナチ党員であり、親衛隊(SS)の高級将校、諜報機関の責任者として知られる人物です。ナチス・ドイツの秘密警察を統括し、ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の主要な実行者の一人として歴史に名を刻んでいます。
ハイドリヒはドイツ人の作曲家の家庭に生まれました。若い頃は海軍に入隊しましたが、1931年に除隊処分となります。その後、経済的に困窮していた彼は国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)と親衛隊に入党し、そこで急速な出世を遂げることになりました。興味深いことに、その動機はイデオロギーへの共感ではなく、あくまで生活の安定と金銭的な理由によるものでした。しかし結果として、彼はナチスの諜報組織の構築に深く関わっていくことになります。
冷酷で合理的な「死の装置」の指揮者
ナチ党が政権を掌握すると、ハイドリヒは冷酷かつ緻密な手腕を持つ人物として頭角を現しました。第二次世界大戦が勃発すると、彼はヒトラーの「死の装置」を監督する中心的な存在の一人となります。特に重要なのは、1942年1月にベルリン郊外のヴァンゼーで開催された会議(ヴァンゼー会議)を主催したことです。この会議において、ヨーロッパ・ユダヤ人の「最終的解決」、すなわちユダヤ人絶滅計画が正式に策定されました。
また1941年には、アドルフ・ヒトラーによってベーメン・メーレン保護領の総督(代理保護官)に任命され、占領地での恐怖政治を敷きました。その強権的な統治ぶりから、彼は「プラハの虐殺者」と呼ばれることもありました。
暗殺作戦「アントロポイド」とその最期
1942年5月27日、ロンドンのチェコ亡命政府が送り込んだ特殊部隊員たちによる暗殺作戦「アントロポイド」が実行されました。プラハ市内でハイドリヒの乗る車が襲撃され、彼は負傷し、数日後の6月4日に死亡しました。ナチス・ドイツの高官としては初めて占領下の抵抗勢力によって暗殺された例となり、連合国側にとって大きな象徴的勝利となりました。
彼の葬儀は、ナチス政権が執り行ったものとしては最大規模の国家的葬儀となり、ヒトラー自身も弔辞を読みました。しかし、この暗殺への報復として、リディツェやレジャーキーなどの村が完全に破壊され、住民が虐殺されるという悲劇も引き起こされています。