結論:彼女はあだ名を捨てることはできなかった
結論から言えば、マリー・アントワネットは生涯を通じて「赤字夫人(Madame Déficit)」というあだ名を拭い去ることができませんでした。この不名誉な呼び名は、彼女がフランス王妃であった期間中ずっと付きまとい、最終的にはフランス革命における彼女の没落へとつながっていったのです。
「赤字夫人」というあだ名の由来
18世紀後半のフランスは、度重なる戦争やアメリカ独立戦争への介入などにより、深刻な財政危機に陥っていました。国民が飢えと重税に苦しんでいたそんな時代に、マリー・アントワネットは豪華なドレスや宝石、そしてヴェルサイユ宮殿内の私邸プチ・トリアノンでの華やかな宴に、莫大な金額を費やしていたことで知られています。
こうした浪費ぶりが世間に知れ渡ると、民衆の間で彼女は「国家財政を食い潰す存在」——すなわち「赤字夫人」と呼ばれるようになりました。あだ名は王妃の奢侈と国家の破綻寸前の財政を結びつける象徴となったのです。
あだ名がもたらした影響
このあだ名は単なる悪口にとどまりませんでした。「首飾り事件」に代表されるスキャンダルが相次ぐなかで、王妃への不信感は加速し、その評判は回復することなく悪化の一途をたどります。当時のパンフレットやゴシップ誌は彼女を浪費と堕落の象徴として描き、「赤字夫人」のイメージは民衆の心に深く刻み込まれていきました。
革命と悲劇的な最期
1789年にフランス革命が勃発すると、「赤字夫人」のイメージは反王政勢力のプロパガンダとして利用されました。彼女は専制と浪費の象徴として断罪され、1793年10月16日、ギロチンによってその37年の生涯を閉じることになります。
つまり、マリー・アントワネットが自ら「赤字夫人」のあだ名を捨てたのではなく、むしろそのあだ名こそが彼女の運命を決定づけたのだと言えるでしょう。