結論から言えば、ニコライ2世は労働者に権力を分かち合う意思を示すことは一切ありませんでした。
血の日曜日事件とは
1905年1月22日(ユリウス暦1月9日)、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで発生した「血の日曜日」事件は、ロシア第一革命の発端となった歴史の転換点です。
当時、正教司祭ゲオルギー・ガポンに率いられた労働者たちは、賃金の引き上げや労働時間の短縮など、より良い労働条件を求める請願書を掲げて冬宮(皇帝の居城)へ平和的に向かいました。その行列には女性や子どもを含む家族連れも数多く参加していました。
皇帝が下したのは対話ではなく発砲命令
しかし皇帝ニコライ2世は、労働者の声に耳を傾け、政治的権限を一部でも譲ることはありませんでした。むしろ彼が下したのは、警察およびコサック騎兵に対して、請願に訪れた労働者とその家族の群衆へ発砲せよという命令でした。
この無差別な銃撃により、推定約1,000人もの命が奪われたとされています。ただし犠牲者数については史料によって幅があり、数百人とする説も存在します。
事件がロシアにもたらした影響
この悲劇的な出来事は、「小さき父(つちくりごと)」として民衆の敬愛を受けていた皇帝への信頼を一瞬にして打ち砕きました。
- 帝国内の各都市でストライキや暴動が相次ぎ、急速に波及
- 労働者・農民・軍隊を巻き込んだ1905年革命の勃発
- 同年10月、皇帝はやむなく十月詔書を発布し、立法機関(国家ドゥーマ)の設置を認めざるを得なくなりました
血の日曜日は、専制君主制が民衆の支持を失い、ロシア帝国崩壊への長い道程が始まった瞬間だったと言えるでしょう。