フランシスコ・ピサロは16世紀にインカ帝国を征服したスペインのコンキスタドールとして知られていますが、その道のりは決して順風満帆ではありませんでした。彼の人生には数々の失敗と苦難が付きまとわり、最後には自らが築き上げた支配の中で非業の死を遂げています。ここでは、ピサロの主な失敗について詳しく見ていきましょう。
初期の遠征は失敗に終わった
ピサロの征服事業は、最初から成功していたわけではありません。1524年、パナマを拠点としてインカ帝国への第一次遠征を試みましたが、過酷な気候、食料の枯渇、先住民との戦闘などにより甚大な損害を受け、撤退を余儀なくされました。
1526年には第二次遠征を実施しましたが、この遠征でも先住民との衝突や部下の反発、補給の問題に直面し、思うように進軍できませんでした。これら初期の失敗によって多くの仲間が命を落とし、出資者からの信頼も揺らぎました。それでもピサロは決して諦めず、1531年についに本格的な征服遠征を開始することとなります。
残虐な征服が招いた反感
ピサロによるインカ帝国の征服は、極めて残虐で血なまぐさいものでした。1532年のカハマルカでは、皇帝アタワルパを裏切って捕らえ、莫大な身代金を受け取ったにもかかわらず処刑しました。さらに、ピサロとその部下たちは数千人規模のインカ人を虐殺したと伝えられています。
こうした残虐行為は、多くのインカ人の心にスペインへの憎悪と抵抗の火種を残す結果となりました。そのため、ピサロが帝国を統治し安定させることは非常に困難になり、征服後も各地で反乱や抵抗運動が絶えることがありませんでした。
短命に終わった支配と暗殺
ピサロの権力は長くは続きませんでした。1541年6月26日、リマにおいて、かつての同志ディエゴ・デ・アルマグロの息子を支持する不満を抱いたスペイン人コンキスタドールの一団によって暗殺されてしまったのです。
彼の死後、ペルーにいたスペイン人勢力は「ピサロ派」と「アルマグロ派」に分裂し、内乱状態へと陥りました。この内紛はスペインによるペルー支配を大きく弱体化させ、のちにスペイン王冠による直接統治が強化される一因ともなりました。
まとめ
フランシスコ・ピサロの人生には、初期遠征での失敗、残虐な征服がもたらした統治の困難、そして短命に終わった支配という大きな挫折が刻まれています。富と権力を手に入れたものの、その地位は決して安泰ではなく、最期はかつての仲間の手によって命を落とすという皮肉な結末を迎えたのです。