1776年に採択されたアメリカ独立宣言は、イギリスからの独立を正当化するために、ジョージ3世国王および本国政府に対する植民地側の数々の不満を明確に列挙した歴史的文書です。ここでは、その中でも特に重要な抗議の理由をわかりやすく紹介します。
代表なしの課税(タックス・ウィズアウト・レプレゼンテーション)
植民地の人々が最も強く反発したのは、イギリス議会に自分たちの代表が一人もいないにもかかわらず、議会によって課税されたことでした。「代表なくして課税なし」というスローガンは、やがて独立運動の中心的な理念となっていきます。
1765年の印紙法
印紙法は、新聞や契約書などあらゆる紙の書類に税金を課す制度で、植民地で特に強い反発を受けました。生活に直結する直接税であったため、単なる経済的負担にとどまらず、「権利の侵害だ」という認識が植民地全体に広まるきっかけとなりました。
ボストン虐殺事件(1770年)
1770年、ボストンにおいてイギリス兵が群衆に向けて発砲し、5人の市民が死亡しました。この事件は「ボストン虐殺」と呼ばれ、当時のプロパガンダとしても盛んに利用され、植民地と本国政府の緊張を一層激化させる結果となりました。
ボストン茶会事件(1773年)
1773年、モホーク族インディアンに変装した植民地人のグループが、ボストン港に停泊していた船からイギリス茶を海へ投げ捨てました。この事件への報復としてイギリスは一連の懲罰的法律を可決し、植民地人の権利はさらに厳しく制限されることになりました。
ケベック法(1774年)
ケベック法は、カナダ在住のカトリック教徒に信仰の自由を認めるとともに、カナダの領域をオハイオ川流域まで拡大する内容でした。植民地人にとっては、自らが領有権を主張してきた土地を奪われる形となったため、この法律に対して強い怒りを示しました。
耐え難き諸法(強制法)
耐え難き諸法は、ボストン茶会事件への報復としてイギリス議会が成立させた一連の法律です。その中には、投棄された茶の代金が支払われるまでボストン港を閉鎖する「ボストン港法」や、マサチューセッツ植民地の憲章を取り消し、イギリス政府の直接統治下に置く「マサチューセッツ統治法」などが含まれていました。
まとめ
以上は、植民地人がジョージ3世国王に対して抱いていた不満のほんの一部にすぎません。独立宣言はこうした苦情を正式に表明した文書であり、イギリスから独立を宣言するという決断の正当性を世界に示す根拠となったのです。