歴史の教科書によれば、帝政ロシアはニコライ2世の退位とともに消滅したことになっている。しかし実は、その十数年後もなお、現地当局から正式に承認された帝政ロシアの大使館が活動を続けていた首都が存在したのだ。しかもその場所は、パリでもロンドンでもなく、ルーマニアの首都ブカレストである。
この奇妙な外交史上の珍事は、ルーマニアとボリシェヴィキ政権との国境紛争を背景に生まれたものだった。そこに、頑固一徹な帝政ロシアの大使が独自の「こだわり」を持ち込むことになる。
頑固な外交官・スタニスワフ・コジェウウォ=ポクレフスキ伯爵
問題の外交官とは、スタニスワフ・コジェウウォ=ポクレフスキ伯爵のことである。彼は第一次世界大戦勃発の直前にブカレストへ赴任した。ご存じの通り、この大戦はロマノフ朝にとって悲惨な結末をもたらすこととなった。
これがスタニスワフ・コジェウウォ=ポクレフスキ伯爵本人である。
しかし、1932年にポーランドの地方紙「ゴニェツ・チェンストホフスキ(Goniec Częstochowski)」が報じたところによると、この外交官には職を辞する気など毛頭なかった。その理由はきわめて単純で、自分を大使に任命した勅令が、いまだ取り消されていないからだという。さらに彼は、皇帝の死に関する情報は誰によっても確認されておらず、新聞に流れる「噂」には法的な意味などないと主張していた。
私を解任できるのは皇帝だけ
もちろん、ポクレフスキのこうした奇矯な姿勢だけでは、この話がここまで注目されることはなかっただろう。重要なのは、前述の国境紛争の存在である。その発端は、1918年にルーマニアがベッサラビアを占領したことにあった。この地域はボリシェヴィキ・ロシアも領有権を主張しており、両国の対立は深刻化していった。
この紛争のため、ルーマニアとソ連は1934年まで外交関係を樹立できなかった。この事情に加え、ロマノフ家と縁戚関係にあったルーマニア王フェルディナンド1世の妃マリアの好意が重なり、帝政ロシアの公館は革命後も長年にわたり存続することになったのである。
ブカレストにおける帝政ロシア大使館の存続は、ルーマニアとソ連の国境紛争と、マリア王妃の好意によって可能となった。
ただし、「活動」という言葉より「生き延びていた」と表現した方が適切かもしれない。帝政崩壊から15年が経ち、かつての大使館の栄光の面影はほとんど残っていなかった。当時のチェンストホヴァの日刊紙の記事は、その様子を次のように伝えている。
大使館前の金メッキの手すりは歳月で黒ずみ、正面の漆喰は剥がれ落ちている。入り口ポータル上部の双頭の鷲は風が吹くたびに揺れ、今にも通りに落ちそうだった。
館内の状態もまた惨憺たるものだった。大使館内の領事部には貧困と絶望の図が広がり、汚れ、埃、蜘蛛の巣にまみれ、部屋の隅には空のワイン瓶が転がっていたという。さらに、価値のあるものはとっくに売り払われてしまっていた。
ポクレフスキの任期が終わったのは1934年、最初のソ連外交官ミハイル・オストロフスキがブカレストに到着したときだった。
最期まで「現役の大使」であり続けた男
外交使節団の人員も大幅に削減されていた。1918年には16人が勤務していたが、15年後にはわずか4人しか残っていなかった。大使のほかには、領事のミリコン博士、一等書記官、そして門番だけである。
本記事の執筆の基となった「ゴニェツ・チェンストホフスキ」紙の号の表紙。
それでもなお、1932年の時点で、すでに公的な活動から退いていたはずのこの大使は、外交団の会合やブカレスト外務省でのレセプションに公式に招待され続けていた。さらに驚くべきことに、彼は何事もなかったかのように帝政ロシアのパスポートを発行していたのだ。ただしこの「栄誉」を得るには、申請者が皇帝への忠誠心を証明しなければならなかったという。
この珍事に終止符が打たれたのは、前述の通り1934年、ルーマニアとソ連の外交関係樹立によってである。同年12月、新しいソ連代表ミハイル・オストロフスキがブカレストに到着した。
こうしてコジェウウォ=ポクレフskiはペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)としてルーマニアからの退去を余儀なくされた。こうして、ニコライ2世の退位後も17年間もの間ブカレストに存在し続けた、帝政ロシアという巨大帝国の小さな断片の歴史に、ついに幕が下ろされたのである。