歴史物語

ドナウ作戦──20万の兵力と4000輌の戦車が終わらせた「プラハの春」

1968年8月20日から21日にかけての夜、ソ連、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、東ドイツの軍隊がチェコスロバキアに進入した。こうして「プラハの春」は幕を閉じた。

チェコスロバキアにおけるスターリン主義からの脱却には、長い歳月を要した。旧来の秩序を守り続けていたのは、共産主義体制の「保守硬派(コンクリート)」出身の大統領アントニーン・ノヴォトニーである。停滞とスターリン主義的な思考への固執は、社会のみならず党内の多くの活動家たちの間でも、次第に強い反発を引き起こしていた。双方が求めていたのは国家の再建と市民的自由の拡大であり、政治体制や同盟関係そのものの変更は提案されていなかった。党内では保守派と改革派の勢力がほぼ均衡していたが、改革派は世論の支持を受けていた。また改革派は、限定的な市場化と企業の自主性を柱とする経済改革も掲げていた。

腐った妥協

党のトップにはアレクサンデル・ドゥプチェクが選ばれた。保守硬派と改革派との間の妥協人事となるはずだった。新書記は半生をソ連で過ごし、モスクワの党学校で学んだ人物である。ところがドゥプチェクは瞬く間に「プラハの春」の顔となった。常に微笑みを絶やさぬ党書記は、社会から圧倒的な好感を獲得したのである。

変革のマニフェストとなったのが、ジャーナリスト兼作家のルドヴィーク・ヴァツリークによる「二千語」だった。この文書は社会的に絶大な影響を及ぼした。作者は共産党を痛烈に批判し、民主派共産主義者たちによる変革の努力を、共産党が非共産主義者に負う債務の返済にすぎないと見なした。変革の運動は共産党内からしか始められなかった。当時、政治的生活を送っていたのは共産党員だけだったからである。

ドナウ作戦──20万の兵力と4000輌の戦車が終わらせた「プラハの春」

改革派が主導権を握った共産党は、新大統領ルドヴィーク・スヴォボダとともに改革プログラムを打ち出した。そこでは権力機構への批判の必要性が指摘され、党は国家の方針を定める一方で、経済・社会生活を直接管理すべきではないとされた。議会が本来の立法機能を取り戻すことも宣言された。さらに連邦制への移行によって、スロバキア人が民族的な願いを実現できるようにすることも盛り込まれた。

改革は市民社会の覚醒をもたらした。あらゆる階層で人々の活動が活発化し、メディアと文化が花開いた。その様子は、ポーランドにおける「連帯」のカーニバルになぞらえられるほどだった。チェコ人とスロバキア人にとって、それは自由と希望の数か月であり、世代全体に刻まれた経験となった。

ゴムウカ、チェコスロバキアに断固反対

チェコ人とスロバキア人(とりわけ党の改革派)は、穏健な改革であればソ連の敵意を買わずに済むと期待していた。実際、当初のソ連指導部は介入、とりわけ軍事介入にそれほど積極的ではなかった。軍事行動を強く促したのは、ポーランドと東ドイツの共産党指導者たちだった。1956年には命懸けでソ連に対抗したヴワディスワフ・ゴムウカは、今度はポーランドに「チェコスロバキアの疫病」が広がることを恐れた。ウォルター・ウルブリヒトも同様に考え、さらに共産主義の正統性への固執に突き動かされていた。ハンガリーとブルガリアもしぶしぶこの同盟に加わった。一方、ルーマニアの指導者ニコラエ・チャウシェスクはこれに加わらなかった。

ドナウ作戦──20万の兵力と4000輌の戦車が終わらせた「プラハの春」

20万人を超える兵士と4000輌を超える戦車が、チェコスロバキアの領土に進入した。

ソ連共産党のレオニード・ブレジネフ書記長と、人民民主主義陣営の他の「友好諸国」の指導者たちは、いわゆる(ブレジネフ)ドクトリンに従って行動することを決めた。これは、陣営の一国で起こる出来事は陣営全体の問題であると宣言するものだった。チェコスロバキアの指導者たちを拘束し、改革撤回を強要するだけでは不十分かもしれなかった。社会の変化はすでに深く根を張っていたのだ。そこで軍事介入が必要とされ、ソ連戦車の掩護のもと、忠実な同志たちによる「正常化」が導入されることになった。

「ドナウ」作戦と名付けられた軍事侵攻は、1968年8月20日から21日の夜、ソ連、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアの軍隊によって実行された。20万人を超える兵士と4000輌超の戦車がチェコスロバキア領内に展開した。うちポーランド派遣部隊は兵士2万6000人、戦車600輌で構成されていた。チェコスロバキアのルドヴィーク・スヴォボダ大統領は、国軍に兵舎にとどまるよう命じた。

東ドイツさながらの「正常化」

侵攻の直後、チェコスロバキア共産党中央委員会幹部会はただちに抗議声明を発表した。この侵攻は、国家間関係の基本原則および国際法に反する行為とみなされたのである。市民に対しては、進入する軍隊に抵抗しないよう呼びかけられた。ソ連はドゥプチェクら党指導者を拘束し、モスクワへ連行して、侵攻への同意を取り付けようとした。

受動的抵抗や自発的なデモは、とりわけプラハで草の根レベルから広がった。介入の翌日には1時間のゼネラルストライキが実施された。市民の抵抗は犠牲を伴い、介入部隊による死者は合計90人に上った。犠牲者の多くはプラハで出ている。

ドナウ作戦──20万の兵力と4000輌の戦車が終わらせた「プラハの春」

8月23日から26日まで続いた協議の結果、チェコスロバキア側は恫喝と脅しによって譲歩を余儀なくされた。第14回党臨時大会の無効化、メディア検閲の復活、「チェコスロバキア問題」の国連安保理からの取り下げに同意したのである。締結された合意は、外国軍隊の国内駐留をも容認する内容だった。

1969年4月、ドゥプチェクは党中央委員会第一書記の座を降りた。後任には強硬派の共産主義者グスターフ・フサークが就いた。粛清は党をはじめ、国家生活のほぼすべての領域を席巻した。権力を握ったのは党官僚(アパラチキ)たちであり、彼らは東ドイツに匹敵する教条的な体制を敷いた。「プラハの春」の参加者と支持者への弾圧は広範囲に及び、数万人のチェコ人とスロバキア人が国外へ亡命した。

参考文献

  1. ヤツェク・テビンカ「なぜポーランドは1968年のチェコスロバキアへの侵略に参加したのか?」、『ポリティカ』歴史ガイド、2018年7月10日