20歳頃とされるマルキ・ド・サドの肖像
バスティーユ襲撃――フランス革命の幕開け
1789年7月14日、パリで起こったバスティーユ牢獄への襲撃は、フランス革命が正式に始まった瞬間として、歴史に刻まれています。
王権の象徴であり、長年にわたり国家の刑務所として使われてきたこの古城に民衆が押し入り、囚人の解放を目指しました。
牢獄に残されていたのは、わずか7人
ところが、暴徒たちが古い要塞になだれ込んだとき、そこに囚われていたのはわずか7人の囚人だけでした。直前の数日間は約10人が収監されていたとも伝えられています。
そして何より注目すべきは、世間で「8人目の囚人」として大きな話題になっていたあの人物――マルキ・ド・サドの姿が、そこにはなかったことです。
ド・サドは「放埒(リベルタンジュ)」の罪により投獄されていましたが、襲撃が起こる数日前、7月初めの時点ですでに別の施設へ移送されていたのです。
窓から叫んだ男、ド・サド
実はド・サドは収監中、独房の窓から外の群衆に向かって「ここでは囚人が虐殺されている!」と大声で叫び、周囲に騒動を巻き起こしたことで有名でした。当局はこの事態を重く見て、1789年7月4日、彼をシャラントンの療養所へ移させたと言われています。
なお、当日解放された7人の囚人の内訳は、偽造犯4人、心神喪失状態にあった者2人、そして貴族1人だったと記録されています。皮肉なことに、「専制の象徴」と恐れられたバスティーユには、政治犯と呼べる人物はほとんど収監されていなかったのです。
ド・サド自身も、獄中で書き上げた代表作『ソドムの120日』の手稿を、この日の混乱で焼失したものと思い込み、深く嘆いたと伝えられます。幸い、手稿自体は後に無事発見されました。
バスティーユ襲撃は民衆の自由の勝利として讃えられましたが、その舞台裏には、時代の激流に翻弄された一人の破天荒な貴族――マルキ・ド・サドの影が、ひそやかに残されているのです。