ボストン虐殺事件とは
1770年3月5日、マサチューセッツ湾植民地のボストンで起きた「ボストン虐殺事件(Boston Massacre)」は、アメリカ独立戦争へとつながる重要な転換点となった事件です。当時、課税に反発するボストンの市民と駐留するイギリス軍との間では緊張が高まっており、この日、群衆が税関前のイギリス兵に雪玉や石を投げつけたことがきっかけで、兵士たちが発砲し、市民5名が死亡、複数人が負傷しました。
この悲劇的な出来事には、指揮官を含むイギリス兵たちと、犠牲となった市民たちの両方が関係しています。以下、それぞれの人物を見ていきましょう。
事件に関与したイギリス兵
現場にいたのは、トマス・プレストン大尉が指揮する分遣隊でした。事件後、プレストン大尉と8名の兵士が殺人罪で裁判にかけられました。主な関係者は以下の通りです。
- トマス・プレストン大尉(Captain Thomas Preston)— 部隊の指揮官
- ヒュー・モントゴメリー二等兵(Private Hugh Montgomery)
- マシュー・キルロイ二等兵(Private Matthew Killroy)
- ウィリアム・マコーリー二等兵(Private William McCauley)
- ウィリアム・ウェムズ二等兵(Private William Wemms)
- ジョン・キャロル二等兵(Private John Carroll)
- ヒュー・ホワイト二等兵(Private Hugh White)
- ジェームズ・ハーティガン二等兵(Private James Hartegan)
- ウィリアム・ウォレン二等兵(Private William Warren)
なお、歴史資料によって記録される兵士の氏名には若干の揺れがあることで知られています。
裁判の結果
興味深いことに、これらの兵士の弁護を引き受けたのは、後にアメリカ合衆国第2代大統領となるジョン・アダムズでした。彼は公正な裁判を重視し、あえて弁護士役を務めました。その結果、プレストン大尉と他6名の兵士は無罪となり、モントゴメリー二等兵とキルロイ二等兵の2名のみが過失致死罪で有罪判決を受けました。刑罰としては死刑ではなく、親指への焼き印(ブランディング)という比較的軽い処分にとどまりました。
犠牲となった市民たち
亡くなった5名
事件で命を落とした市民は以下の5名です。彼らは「独立の最初の犠牲者」として後世に語り継がれています。
- クリスパス・アタックス(Crispus Attucks)— アフリカ系と先住民の血を引く船員で、最初の犠牲者として特に有名
- サミュエル・グレイ(Samuel Gray)— 縄職人の労働者
- ジェームズ・コールドウェル(James Caldwell)— 船員
- サミュエル・マーヴェリック(Samuel Maverick)— 17歳の若い見習い工
- パトリック・カー(Patrick Carr)— アイルランド出身の革職人。負傷から数日後に死亡
負傷した市民
発砲により重傷を負いながらも生き残った市民もいます。主な人物は以下の通りです。
- クリストファー・モンク(Christopher Monk)— 重傷を負い、数年後に後遺症で死亡したとされる
- ジョン・クラーク(John Clark)
- エドワード・ゲリッシュ(Edward Gerrish)— 事件の発端に関わった少年として知られる
- ロバート・パターソン(Robert Patterson)
- デイヴィッド・パーカー(David Parker)
事件の歴史的意義
ボストン虐殺事件は、ポール・リヴィアらによる版画が広く流布されたことで、「イギリス軍による無辜の民衆への虐殺」として植民地全体に喧伝され、反英感情を一気に高めました。クリスパス・アタックスは黒人初の革命の殉教者として記憶され、事件はアメリカ独立への機運を決定的にする象徴となったのです。