アジアの歴史

毛沢東はなぜ長征を「始めた」のか?――実は始めたのは彼ではなかった

毛沢東は長征を「始めた」のではなく「率いた」

「毛沢東が長征を始めた」という表現は、よく見かける誤解のひとつです。歴史的事実としては、長征を発動したのは当時の中国共産党指導部であり、毛沢東自身ではありません。長征とは、中国共産党の紅軍(赤軍)主力が行った大規模な軍事的撤退――すなわち戦略的退却――に与えられた名称です。毛沢東がその先頭に立つようになったのは、行軍の途上における出来事がきっかけでした。

長征とはどのような出来事だったのか

長征は、1934年10月に江西省の中央ソビエト区(瑞金を中心とする革命根拠地)から出発し、1936年10月に甘粛省で紅軍の各部隊が合流するまで続いた、約2年間に及ぶ大移動です。総距離はおよそ2万5千華里(約1万2500キロメートル)とされ、「二万五千里長征」と呼ばれることもあります。

撤退せざるを得なかった背景

出発の直接の原因は、蒋介石率いる国民党軍による「包囲討伐(囲剿)」の激化です。とりわけ第5次包囲討伐において、ソビエト区は経済封鎖と軍事的包囲によって壊滅的な打撃を受けました。加えて、当時の党指導部(博古ら)とコミンテルンからの軍事顧問オットー・ブラウン(李徳)による硬直的な正面決戦路線が敗北を招いたことも、撤退決定の大きな要因とされています。

毛沢東が主導権を握った転換点――遵義会議

長征の出発当初、毛沢東は指導部の中枢から外れた立場にありました。状況が転換したのは、1935年1月に貴州省遵義で開かれた政治局拡大会議(遵義会議)です。この会議でそれまでの軍事指導が誤りだったことが糾弾され、毛沢東が軍事指導の実権を掌握しました。以降、機動的な遊撃戦術によって包囲網を突破し、険しい山岳地帯や大河を越える過酷な行軍を指揮したのが毛沢東だったのです。

「始めた者」から「率いた者」へ

つまり長征は、追い詰められた紅軍が生き残りのために余儀なく選んだ撤退でした。毛沢東はその発案者ではありませんが、道半ばで指導権を獲得し、困難極まる行軍を成功へと導くことで、党内における揺るぎない指導的地位を確立していきました。この点を踏まえて歴史を見ると、「長征を始めたのは誰か」「率いたのは誰か」という区別が、中国現代史を理解するうえでいかに重要であるかが分かります。