ベトナム戦争期、米国は公式には交戦国ではないラオスとカンボジアの領内で、大規模な爆撃や地上作戦を含む軍事行動を実施しました。秘密裏に行われたカンボジア爆撃(メニュー作戦)や、1971年のラオス侵攻(ラムソン719作戦)などがその代表例です。では、なぜ米国はこれらの国々にまで戦線を拡大したのでしょうか。主な理由を3つに分けて解説します。
1. 北ベトナムの補給線を断つため
最大の動機となったのが、ホーチミン・ルートの遮断です。このルートはラオス東部からカンボジア東部を経由して南ベトナムへ至る兵站網であり、北ベトナム軍や南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)に対して、武器・弾薬・食糧・兵員を供給する生命線でした。
正規の補給路が海上封鎖などで制限される中、この密林の中の回廊はほぼ唯一の大規模輸送手段でした。米国はラオスとカンボジア国内のベトコン勢力や補給拠点を攻撃することで、前線への物資流入を断ち、北ベトナムの戦争遂行能力を弱体化させようとしたのです。
2. 共産主義の拡大を防ぐため
2つ目の理由は、当時の米国が掲げた「ドミノ理論」に基づくものです。これは、一国が共産化すると周辺諸国がドミノ倒しのように次々と共産化するという考え方で、冷戦期の米国の東南アジア政策の根幹をなしていました。
もし北ベトナムが戦争に勝利すれば、ラオス、カンボジア、さらにはタイやマレーシアへと共産主義が波及する——米国指導部はそう危惧し、隣接国への介入によってその連鎖を食い止めようとしたのです。
3. ラオスとカンボジアの政府を支援するため
3つ目は、親米政権の維持です。当時のラオス王国政府やカンボジアのロン・ノル政権は、国内の共産主義勢力(パテト・ラーオやクメール・ルージュ)との戦いで苦戦を強いられていました。
米国は軍事援助、顧問団の派遣、空爆による支援などを通じて、これらの政府が崩壊しないよう支え、東南アジアにおける反共の砦として機能させようとしたのです。
介入の結果――目標は達成されず
しかし、こうした米国の介入は最終的に失敗に終わりました。
- 北ベトナムは1975年にベトナム戦争に勝利し、ベトナムは統一されました。
- 同年、カンボジアではクメール・ルージュが政権を掌握し、ラオスでも共産主義勢力が権力を握りました。「ドミノ」は現実のものとなったのです。
- 米軍は両国で多数の犠牲者を出す一方、秘密爆撃の暴露などにより、国内世論の反戦感情を一層強める結果となりました。
さらに悲劇的なことに、カンボジアへの爆撃は同国の政治的混乱を深め、後に大量虐殺を行うクメール・ルージュの台頭を招いたとも指摘されています。ラオス・カンボジアへの介入は、ベトナム戦争全体の帰結を変えることはなく、むしろ地域の不安定化と米国内の対立を深刻化させることになったのです。