個人的に、この名前を聞くとどうしても「不適切な関係」という言葉を思い出してしまいます。しかし、ビル・クリントンは財政再建とIT景気によってアメリカを空前の好況へと導いた、経済面で大きな実績を残した大統領でもあります。ここでは、波乱に満ちた少年時代から大統領就任、栄光とスキャンダルに至るまでの足跡を紹介していきます。
大統領になる前のビル・クリントン
ビル・クリントンは1946年、アーカンソー州に生まれました。「ビル」は愛称で、本名はウィリアム・ジェファーソン・クリントンといいます(ジミー・カーターの本名が「ジミー」ではないのと同じように、愛称で呼ばれることの多い人物です)。
彼は第二次世界大戦後に初めて誕生した大統領であり、この記事を執筆した2019年時点でも存命しています。
クリントンの実父は、彼が生まれる前に交通事故で亡くなりました。母親はその後、ロジャー・クリントンという男性と再婚しますが、義父による家庭内暴力に苦しむなど、幼少期は決して恵まれた環境ではなかったようです。
1964年にジョージタウン大学に入学すると、在学中はフルブライト上院議員のもとで働き、卒業後は奨学金を得てオックスフォード大学に2年間留学しました。帰国後はイェール大学ロースクールに進み、そこで後の妻となるヒラリーと出会っています。
卒業後はアーカンソー大学法科大学院で教鞭を執り、1978年には32歳という若さでアーカンソー州知事に当選。以降、同州知事を長く務め上げました。
そして1992年の大統領選挙に出馬し、第42代アメリカ合衆国大統領の座をつかみ取ります。
第42代アメリカ合衆国大統領

民主党出身の大統領としては、ジミー・カーター以来となる就任でした。
クリントンの最大の功績は、29年ぶりにアメリカの財政を黒字化させたことに尽きます。従来の重工業中心だったアメリカの基幹産業を、シリコンバレーに代表されるハイテク・IT産業中心へと転換させ、フランクリン・ルーズベルト以来とも称される好景気をもたらしました。
2000年には約2,000億ドル規模の財政黒字を達成。移民への英語教育の充実やドル信用の回復も進められ、一連の政策は「ニューエコノミー」と呼ばれました。
外交面では、パレスチナ問題においてイスラエルのラビン首相とPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長の間に立って和平交渉を主導し、パレスチナ暫定自治政府の設立を実現させます。しかし1995年にラビン首相が暗殺されると、和平プロセスは結局、白紙に戻ることとなりました。
極東情勢では、ベトナムとの国交を約20年ぶりに正常化し、名実ともにベトナム戦争の幕引きを果たしています。
一方、アフリカ情勢では、無政府状態に陥ったソマリアへ米軍を派遣するものの、事態を解決できず、兵士の犠牲を出して撤退。内戦は泥沼化して多くの人々が亡くなり、アメリカ国内から強い批判を浴びました。レーガン、ブッシュの時代を経験したアメリカ人にとって「アメリカは世界の警察」であることが当然視されていた時代だけに、この失敗は大きな痛手となったのです。
また、自由貿易協定NAFTA(北米自由貿易協定)が発効。参加国はアメリカ、カナダ、メキシコの3か国でしたが、メキシコ国内では反発が強く、急進派のサパティスタ民族解放軍が武装蜂起する事態にまで発展します。
さらにNAFTAがメキシコ経済を破壊したとの指摘もあり、メキシコからアメリカへの移民・不法移民が増加する一因となったとも言われています。
このように、内政では民主党政権らしい充実した実績を残す一方、外交では失策も目立ったクリントン政権。とはいえ、総合的には高めの評価が可能な大統領でした。ところが、モニカ・ルインスキーという女性との「不適切な関係」が発覚。南北戦争後のジョンソン大統領以来となる弾劾訴追を受ける事態に至ってしまったのです。
どうやらすべてはホワイトハウスの中での出来事だったようですが……。
ビル・クリントンの個人評価
真偽は定かではありませんが、クリントンには次のような有名な逸話があります。
あるとき、大統領になったクリントンはヒラリーとともにガソリンスタンドに立ち寄りました。そこで働いていたのは、なんとヒラリーのかつての恋人。それを見たクリントンはヒラリーにこう言いました。「俺と結婚して本当に良かったんだろう? もし君があいつと結婚していたら、今頃はガソリンスタンド店員の妻だったんだぞ」。これに対してヒラリーはこう返したといいます。
「いいえ、もし私があの人と結婚していたら、大統領になっていたのはあの人の方よ」
この話が事実かどうかは分かりませんが、ビル・クリントンという人間を最もよく表している逸話であることは間違いないでしょう。