ヨーロッパの歴史

1913年2月21日――イピロス解放の日:クレタ義勇兵とアメリカ人准将の物語

1913年2月21日――イピロス解放の日:クレタ義勇兵とアメリカ人准将の物語

はじめに:クレタとイピロスを結ぶ歴史的な日

1913年2月21日は、ギリシャにとって忘れることのできない歴史的記念日である。この日、オスマン帝国の支配下にあったヤニナ(イオアニナ)が解放され、イピロス地方が自由を取り戻した。この偉業の陰には、故郷クレタ島からはるばる駆けつけた義勇兵たちの存在がある。首相エレフテリオス・ヴェニゼロスがこの神聖な事業に最も貢献したことは言うまでもないが、イピロス解放のための英雄的な戦いのすべてに参加した「クレタ学生神聖同盟」の活躍もまた、歴史に刻まれるべきものである。

なお、当時のギリシャはユリウス暦を使用していたため、この「2月21日」は現在のグレゴリオ暦では1913年3月6日に相当する。

ヴェニゼロスとシナニオティス中佐

ヴェニゼロス自身、1912年10月14日、歩兵中佐ランブロス・シナニオティスに対し、連隊の軍旗を手渡した。この連隊は、ペンテ・ピガディア(五つの井戸)の戦い(10月24日〜27日)、ペストンの戦い(10月29日)、そして1912年12月から1913年2月21日にかけてのアイトラヒ、マノリアサ、ビザニにおける伝説的で壮絶な戦闘に参戦した。シナニオティス率いるクレタの戦士たちが、「アエラ(突撃の雄叫び)」を初めて耳にしたのもこの戦線においてであった。

7,000人のクレタ義勇兵

クレタ人義勇兵は、ギパリス、イピティス、キリアコス・ミツォタキス、デリギアンナキス、マクリス、スクラス、マノスらに率いられた77部隊・約3,500人を数えた。さらに別の3,500人が、シナニオティス中佐麾下の「独立クレタ連隊」に加わった。

クレタ学生神聖中隊の犠牲

1912年10月、240名(250名とする資料もある)の学生からなる「クレタ学生神聖中隊」がプレヴェザに到着し、イピロス軍に合流した。この英雄たちのうち160名が作戦行動中に命を落とした。同じ頃、クレタの教員たちで構成される中隊も到着し、部隊に加わっている。

「クレタ学生神聖同盟」に志願した法学部生コスティス・カピダキス(後にクレタ控訴裁判所事務局長を務めた)は、次のように書き残している。「学生同盟に加わった部隊1,400名のうち、生き残ったのは567名であった。残る833名は戦場に散り、大隊はディロヒアで再編成された」。

従軍牧師が残した記録

「クレタ学生神聖中隊」は独立クレタ連隊第1クレタ大隊に所属していた。同中隊の従軍牧師であり、後に農学者となったイオアニス・K・ハツィダキスは、1927年の著書『戦う英雄たち』の中で、この英雄的中で、この英雄的中隊の編成と活動について簡潔かつ鮮明な記録を残している。

「クレタ義勇兵中隊は250名の学生によって構成されていた。彼らは机を離れ、バルカン戦争開戦の報に接するや直ちに駆けつけ、1821年の聖戦士のごとく、トルコの軛(くびき)の下に苦しむ兄弟たちの解放のために、自発的に血を流すことを誓ったのである。彼らはイピロス戦線の巨大な戦いに、最初から最後まで参加した」。
「彼らはペストンの戦いで大きな役割を果たし、2門の砲を鹵獲した――ペストンに真っ先に踏み入ったのも彼らだった……1913年2月21日、ビザニ要塞が降伏したその日、彼らは敵をわずか200メートルの距離に見据えていた。そしてヤニナの降伏文書は、まさに彼らの手に託されたのである。文書は彼らの手を経て、総司令部へと届けられた……」。

ハニアの高校生たちとガリバルディ義勇兵

1912〜13年のバルカン戦争におけるマケドニアとイピロス解放へのクレタ人の参加・貢献の頂点を飾るのが、ハニア高校の生徒たちであった。また、イタリアから渡ってきたリッチョッティ・ガリバルディ一門の「ガリバルディーニ」と呼ばれる赤シャツ義勇兵たちによる部隊も編成されている。

詩人マヴィリスの遺言

ケルキラ(コルフ)出身の国会議員にして詩人ロレンツォス・マヴィリスは、1912年11月23日、ヤニナ近郊ドリスコでの戦闘で致命傷を負い、息を引き取る間際にこう言い残した。「ギリシャのために我が命を捧げられるとは、こんな栄誉は望んでもみなかった」――不朽の言葉である。

海を越えた義勇兵――アメリカの「フィラデルフィア結社」

開戦の報を聞いたアメリカ在住の独身ギリシャ人225名は、「フィラデルフィア神聖結社」――通称「アメリカ人結社」――を結成した。彼らは祖国のために一切を投げ打つことを厭わなかった。現地イピロス系コミュニティの財政的支援を受け、旅客船を傭船し、野砲4門と武器弾薬を購入して、1912年11月、シナニオティスの独立クレタ連隊に合流した。その半数が、ヤニナ近郊アイトラヒの戦いで命を落としたのである。

当時の民謡(マンティナーダ)は、彼らの無償の犠牲をこう歌っている。

クレタ男(クリティコプロス)はビザニの後方で心の戦いをする
彼を泣いて悼む母はいない、彼を憐れむ主人もいない
嘆き悲しむ兄弟も姉妹もいない
ただ伍長だけが、彼を憐れんでいるのだ

もう一人の英雄――アメリカ人准将トーマス・S・ハッチソン

多くの人々にほとんど知られていない、もう一つの物語がある。それはトーマス・セッツァー・ハッチソンという名前にまつわるものである。多くのギリシャ人にとって、この名前は特別何かを思い起こさせないかもしれない。しかしハッチソンは、1912年、ヤニナをオスマン帝国から解放するためのビザニの戦いに参加したアメリカの軍人(准将)なのである。准将トーマス・セッツァー・ハッチソンは州兵(ナショナル・ガード)に所属し、アメリカ合衆国テネシー州の出身だった。

ニューヨーク訪問中のこと、ハッチソン准将は感動的な光景を目にした。祖国ギリシャへ戻り、ヤニナ解放の戦いに参加しようとするギリシャ系アメリカ人義勇兵たちの出発準備である。ハッチソンは一瞬のためらいもなく、自ら志願した。

ハッチソンはビザニの戦場でギリシャ兵たち(おそらくクレタ義勇兵たちも?)と肩を並べて戦い、負傷した。ビザニへ向かう数日前には、アテネでエレフテリオス・ヴェニゼロスとも面会している。1913年に帰米すると、ハッチソンは『ギリシャの軍旗下で戦ったアメリカ兵――ベザニにて』という題の本を出版した。

永遠の感謝を込めて

クレタ義勇兵たちにも、英雄的なアメリカ市民ハッチソン准将にも、国家の戦いにおいて共に戦ってくれたすべての人々と同様に、ギリシャ人は名誉と栄光を捧げたい。

ヤニナから追われるようにして離れたイピロスの血を引く筆者としても、故郷ヤニナの解放のために命を捧げたこれら英雄的なクレタ人たちと、アメリカのハッチソン准将に、尽きることのない深い感謝を表したい。そして、次の二つの民謡を口ずさまずにはいられない。

「ヤニナを取ったぞ、と多くの目が語る、笑いながら泣く多くの目が語る。
グレヴェナの鳥たちよ、メツォボの夜鶯よと呼ぶ声が聞こえる、霜に震え恐怖に慄いたあの場所で。
拍手と雷鳴が語る、鐘が語る、喜びに満ちた母たちが語り、黒衣をまとった母たちもまた語る」
「母さん、ペストンとビザニは寒かった。ペストンのマノリアサでは息もできなかった。
銃弾も大砲も怖くないよ、母さん。私が恐れるのは霜だけ、ビザニの雪だけ」――不滅の歌である!