ヨーロッパの歴史

なぜイギリスは「容認できない諸法」を可決したのか?その背景と4つの法令を解説

1774年、イギリスは北米植民地における住民たちの反抗と抗議行動への対応として、いわゆる「容認できない諸法(Intolerable Acts)」を可決しました。当時の植民地の人々は、イギリス議会に自らの代表を持たないまま課税されることに強く反発しており、印紙法やタウンゼンド法といった本国の政策・法律に対して抗議を続けていました。

「容認できない諸法」制定の背景

直接の引き金となったのは、1773年12月に発生した「ボストン茶会事件」です。茶法(Tea Act)に反対した植民地人が、ボストン港に停泊していた船から茶箱を海へ投げ込みました。この事件を受け、イギリス政府はマサチューセッツ植民地を懲らしめ、本国の権威を断固として示す必要があると判断したのです。

容認できない諸法の主な内容

「容認できない諸法」は、マサチューセッツを処罰し、イギリスの支配力を回復することを目的とした一連の懲罰的な法律群でした。主なものは以下の4つです。

1. ボストン港法(Boston Port Act)

ボストン茶会事件で破茶会事件で破壊された茶葉の損害が賠償されるまで、ボストン港を閉鎖すると定めました。貿易に依存していたボストンの経済に大きな打撃を与える措置でした。

2. マサチューセッツ統治法(Massachusetts Government Act)

選挙で選ばれた議会の権限を縮小し、王から任命された総督の権限を大幅に強化するよう、マサチューセッツの統治体制を再編しました。

3. 司法行政法(Administration of Justice Act)

植民地で罪に問われたイギリス官吏について、本国イギリスへ移送して裁判にかけることを認めました。本国での審理では官吏に不利にならない可能性が高いとされ、公正さを欠くとして強い批判を浴びました。

4. 宿営法(Quartering Act)

植民地人に対し、イギリス兵に食料や宿舎を提供することを義務付けました。私有地にも兵士を宿泊させられる恐れがあり、住民の大きな反発を招きました。

植民地人の反応とその後

これらの法律は、植民地人の権利と自由に対する重大な侵害であると受け止められ、広範囲にわたる怒りを引き起こしました。人々はこの一連の法令を「容認できない諸法」と呼んで非難し、各植民地は連携して対応する動きを見せます。その結果、1774年には第一次大陸会議が開催されました。

「容認できない諸法」は、植民地と本国の間の緊張と反感を決定的に高め、翌1775年のレキシントン・コンコードの戦闘を経て、最終的にはアメリカ独立戦争へとつながっていったのです。