プロフィール:1768年8月6日(プラサック)生まれ ~ 1813年5月1日(リッパハ)没

- ベシエールの紋章
理髪外科医の息子として生まれたベシエールは、1791年に市民の推挙を受けてルイ16世の憲法親衛隊に送られ、テュイルリー宮殿襲撃の際にはその防衛に身を挺しました。
その後、革命軍に加わるとリヴォリの戦いで頭角を現し、同地で少佐に任官。1799年にはエジプト遠征におけるサン・ジャン・ダクル包囲戦やアブキールの戦いに参加しています。
ジャン=バティスト・ベシエールはピレネー方面軍での活躍により中尉・大尉に昇進し、第22猟騎兵連隊とともにイタリアへ移ると、ボナパルトの指揮下で「ガイド部隊」の指揮官を務めました。ロヴェレードの戦いでは、わずか6名の猟騎兵とともに敵の大砲2門を鹵獲する武勇を披露しています。
エジプト、マレンゴ、アウステルリッツ、イエナ、アイラウ
エジプト遠征でボナパルトに同行した後、ブリュメール18日のクーデターではボナパルトの身辺警護を担い、この功績によって執政府親衛隊の副指揮官に任命されました。
1800年6月14日、ベシエールはマレンゴの戦いで突撃を敢行。1ヶ月後には旅団将軍に昇進し、1802年9月には師団将軍、さらに1804年5月には帝国元帥に列せられます。ナポレオンがオーストリアへ進軍した際には近衛騎兵の指揮を執り、1805年12月2日のアウステルリッツの戦いでは、ロシア帝国親衛隊を打ち破る近衛猟騎兵・近衛擲弾騎兵による伝説的な突撃を指揮しました。
翌1806年10月14日にはイエナの戦いに参加。さらに1807年2月8日のアイラウの戦いでは、猛烈な吹雪の中、フランス騎兵80個中隊による壮絶な大突撃を率い、ロシア軍の戦線を打ち破りました。
メディナ・デル・リオ・セコ、ヴァグラム、そしてロシアへ
1808年、ベシエールはスペインへ派遣され、ラサール将軍の協力を得て、同年7月14日のメディナ・デル・リオ・セコの戦いに勝利しました。
オーストリア戦役のため皇帝に呼び戻されると、1809年4月21日のランツフートでオーストリア騎兵を撃破し、続くアスペルン・エスリングとヴァグラムの激戦にも参戦。ヴァグラムでは乗馬を撃たれています。
1809年5月にイストリア公に叙せられた彼は、1811年に数ヶ月間スペインに駐留しましたが、ウェリントンに対するマセナへの支援を拒否したため、ポルトガル喪失の責任を問われることとなりました。
1812年、ベシエールはロシア遠征の大陸軍に合流。最大の武功は、1812年10月24日~25日、マロヤロスラヴェツにおいて約8,000のコサックに襲われた皇帝の大本営を守り抜いたことにほかなりません。
一発の弾丸に倒れる
1813年、ザクセン戦役が始まると、皇帝は全軍の騎兵をベシエールに委ねました。しかし同年5月1日、リュッツェンの戦い前夜、ヴァイセンフェルス付近で攻撃を指揮中、砲弾が手を粉砕し胸を貫いたのです。彼の名は、エトワール凱旋門の東面に刻まれています。

- ジェロー・ピエール・アンリ・ジュリアン・ベシエール
年表でたどるベシエールの生涯
1768年
- 6月6日:ロット県プラサックに生まれる
1788年
- 自治体の陳情書(苦情帖)の作成を担当
1791年
- ルイ16世の憲法親衛隊に派遣される
1792年
- 4月:ルイ16世の憲法親衛隊に入隊
- 6月5日:除隊
- 11月1日:第22猟騎兵連隊に入隊
1797年
- 1月14日:リヴォリの戦いで活躍
1798年
- 3月9日:中隊長に就任
1799年
- 3月19日~5月20日:サン・ジャン・ダクル包囲戦に参加
- 7月25日:アブキールの勝利に参加
1800年
- 6月14日:マレンゴで突撃
- 7月:旅団将軍に昇進
1802年
- 9月13日:師団将軍に任命される
1804年
- 5月19日:帝国元帥に叙せられる
1805年
- 近衛騎兵を率いてオーストリア軍へ進軍
- 12月2日:アウステルリッツで突撃
1806年
- 10月14日:イエナの戦いに参加
1807年
- 2月8日:アイラウの戦いに参加
1808年
- サラマンカ占領のためスペインへ出発
- 7月14日:メディナ・デル・リオ・セコに勝利
1809年
- 4月21日:ランツフートでオーストリア騎兵を撃破
- 5月:イストリア公に叙せられる
1811年
- スペイン総督に就任
1812年
- 近衛騎兵を率いてロシア戦役に従軍
- 10月24日~25日:コサック約8,000に襲われた皇帝の大本営をマロヤロスラヴェツで救援
1813年
- ザクセン戦役で全軍の騎兵を指揮
- 5月1日:ヴァイセンフェルス付近で砲弾により戦死