「ロバート・ラサリー」という名の探検家は歴史上存在しません。おそらく思い浮かべているのは、17世紀フランスの著名な探検家ルネ=ロベール・カヴリエ・ド・ラ・サール(René-Robert Cavelier, Sieur de La Salle)でしょう。本記事では、ラ・サールがなぜ北米大陸の探検に人生を捧げたのか、その動機と功績を詳しく解説します。
ラ・サールとはどんな人物か
ラ・サール(1643年~1687年)は、フランス・ルーアンで裕福な商人の家庭に生まれました。若くしてヌーベルフランス(現在のカナダ)へ渡り、毛皮交易に携わる中で、まだ誰も足を踏み入れたことのない内陸部への強い関心を抱くようになります。やがて彼は、探検家として北米の歴史に名を刻むことになるのです。
探検の主な動機
1. アジアへの西回り航路の発見
当時のヨーロッパ人探検家にとって最大の夢は、アジアへ至る西回りの航路を見つけることでした。ラ・サールは、ミシシッピ川が太平洋あるいはメキシコ湾へと通じる「中国や日本への道」になると確信しており、この仮説を検証するために何度も危険な探検を重ねました。
2. 毛皮交易による富の追求
北米内陸部にはビーバーなどの毛皮を持つ動物が豊富に生息していました。新しい交易路や拠点を開拓できれば莫大な利益が見込めるため、商機の追求も彼にとって大きな原動力となりました。
3. フランス領土の拡大と個人的な栄達
ラ・サールは、王権からの支援を得て大きな功績を挙げれば、名誉と地位を手に入れられると考えていました。実際、1682年にミシシッピ川を河口まで下り、その流域一帯をフランス国王に献上する形で「ルイジアナ」と命名し、フランス領であることを宣言しました。
主な探検の足跡
- 1666年頃: ヌーベルフランスに渡り、モントリオール近郊で土地を取得して交易を開始。
- 1669年: オハイオ川流域を探索し、フランスによる領有権主張の根拠を築く。
- 1679年: 帆船グリフォン号を建造し、五大湖地域の航行を実現。
- 1682年: ミシシッピ川をほぼ全流にわたって下り、メキシコ湾に到達。流域全体をフランス領と宣言。
- 1684年: 河口への植民地建設を目指すが、航海中の誤算により目的地を大きく外れたテキサス沿岸に上陸。
- 1687年: 植民地計画の失敗や物資不足から部下の反乱が起こり、現在のテキサス州で暗殺される。
まとめ
ラ・サールの探検は、「アジアへの航路発見」という夢、「毛皮交易による富」の追求、そして「フランス帝国の拡大」という三つの動機によって推し進められました。彼自身は部下の手による悲劇的な最期を遂げましたが、その探検活動は北米におけるフランス領の基盤を築き、後の大陸の歴史に多大な影響を残しました。