1981年3月6日午前10時前、西ドイツ・リューベックの裁判所で、7歳の娘アンナを殺害された母親マリアンヌ・バッハマイヤー(当時31歳)が、法廷内で被告人を射殺するという前例のない事件が起きた。この「私刑」とも呼ぶべき行為は、ドイツの司法史に深い一頁を刻んだ。バッハマイヤー自身は、その後すい臓がんに侵され、1996年9月17日、46歳でリューベックにてこの世を去った。
法廷で起きた突然の銃撃
悲劇の現場となったのは、リューベック地方法院の第157号法庭だった。7歳の少女アンナが絞殺された事件の公判は3日目を迎えており、被告人のクラウス・グラボウスキー(当時35歳)は、性的虐待の前科を持つ性犯罪者で、すでに殺害を自供していた。そこへ、被害者の母親バッハマイヤーが背後から静かに近づく。彼女はコートのポケットから22口径のベレッタ拳銃を取り出し、グラボウスキーの背中に向けて8回引き金を引いた。6発が命中し、肉屋を営む35歳の男は法廷内で死亡した。
「顔を狙っていたのに、残念ながら背中に当たってしまった。死んでくれたことを願う」。犯行直後、バッハマイヤーはこう語り、一切の抵抗なく逮捕された。
殺人罪か、故殺罪か――下された判決
事件から約2年後、今度はバッハマイヤー自身が同じリューベックの法廷に立つことになった。裁判所に問われたのは、彼女の行為が計画的な「殺人」なのか、激情による「故殺」なのかという点である。1983年3月2日、法廷は故殺罪および銃器の不法所持の罪で、懲役6年の判決を言い渡した。
世論を二分した「母の復讐」
判決によって、長らく世間を揺るがせ続けた刑事事件は法的決着を見た。しかし、バッハマイヤーの復讐は、ドイツ戦後史上おそらく最も衝撃的な私刑事件として、今なお語り継がれている。当時、多くの人々が彼女の犯行に理解を示し、「悲しみに暮れる母親の窮余の行動」だと捉えた。一方で、法治国家の暴力独占の原則を守るためには厳罰が不可欠だという意見も根強く、社会は大きく割れた。
雑誌「シュテルン」に売られた人生譚
事件後、バッハマイヤーは突如として世間の注視の的となった。彼女は自身の人生譚を週刊誌「シュテルン」に25万マルクで売却し、その印税で1982年11月に始まる自身の裁判の弁護費用に充てた。
全13回にわたる連載の中で、読者が知ったのは波乱に満ちた彼女の生い立ちだった。元武装親衛隊(Waffen-SS)隊員で権威主的な父を持つ、厳格で信仰心の厚い家庭に育ったマリアンヌは、16歳で初めて妊娠し、18歳でもう一人の子を身ごもるが、2人の娘とも養子に出している。2人目の出産直前にはレイプ被害にも遭った。1973年、23歳のときに産まれた3人目の娘アンナだけは、手もとに残すことを選んだのだった。
1980年5月5日――アンナ殺害の那一天
周囲の記憶によれば、小さなアンナは明るく心優しい子どもだった。リューベックで酒場を営む母と二人で暮らしていた。悲劇の日、アンナは母親との口論のあと学校をサボり、その足でクラウス・グラボウスキーの手に落ちた。
35歳のグラボウスキーは児童への性的虐待で前科を持ち、精神科での治療歴があり、かつて自ら去勢手術を受けていた。しかし後に裁判所の許可を得てホルモン治療を受け、性欲を取り戻していたのである。彼は自宅アパートでアンナを数時間にわたり監禁し、パンティストッキングで絞殺した。殺害の前に少女への性的暴行があったかどうかは、最後まで解明されなかった。
容疑者の逮捕と、母を激怒させた「ゆすり」供述
グラボウスキーはアンナの遺体を箱に入れて運河の岸辺に埋めたが、当日の夕方、婚約者の通報によりすぐさま逮捕された。彼は殺害を認めたものの、少女への暴行は頑として否認した。代わりに警察に語ったのは、「アンナが金を要求し、応じなければ母親に虐待されたと告げ口すると脅してきた。刑務所に戻るのが怖く、絞殺してしまった」という意外な内容だった。
おそらく、まさにこの供述こそがグラボウスキーの死を招いたのだろう。バッハマイヤーはこの言葉に強烈な侮辱を感じた。彼女は後のインタビューで、「彼が証言しようとしていると聞いたとき、犠牲者である自分の子供について、また次の嘘が語られようとしていると思った」と述べ、娘の名誉を汚されるのを防ぎたかったと犯行の動機を説明している。
全国の注目を集めたバッハマイヤー裁判
1982年11月2日に始まったバッハマイヤーへの裁判は、全国規模のセンセーションを巻き起こした。罪名は当初殺人罪、のちに故殺罪とされ、彼女自身がメディア報道の中心に据えられた。
世間の反応は様々だった。これまで2人の少女に性的虐待を加えてきた男が、裁判所の許可を得てホルモン治療で性欲を回復することを許した司法そのものを批判する者。アンナへの育児怠慢を疑い、母親の悲しみの真実性に疑問を呈する者。そして、復讐という行為そのものに同情を隠さない者。社会全体がこの事件をめぐって揺れ動いた。
計画犯か、激情か――法廷の最大の争点
白熱する世論の中で、法廷が見極めねばならなかったのは、バッハマイヤーの行為が悪質な予謀に基づく「殺人」なのか、一時の激情による「故殺」なのかという点だった。彼女は本当に身の危険を感じて銃を法廷に持ち込んだのか。それとも、我が子を殺した男への復讐のために?
1983年3月2日の故殺罪および不法所持罪による有罪判決は、「犯行は計画的なものではなかった」という弁護側の主張を大幅に容れた形となった。彼女は1985年6月に仮釈放されるとドイツを離れ、1990年までナイジェリアに、その後はシチリア島に移り住んだ。パレルモのホスピスでは、終末期患者の介助スタッフとして働いたという。
公開された「死」
1996年、バッハマイヤーはすい臓がんの末期であることが判明し、ドイツに帰国。同年9月17日、46歳で亡くなった。本人はパレルモでの埋葬を望んでいたが、遺体はリューベックのブルクトーア墓地にある娘アンナの墓の傍らに眠っている。
晩年、彼女は自らの意思で、NDR(北ドイツ放送)のルーカス・マリア・ベーマー記者に、死までの数週間を記録映画として撮影するよう依頼した。死を公開の場にさらすという選択には、犯行以来ずっと、自らの運命への社会的関心と共感を求め続けた彼女の、妥协なき一貫した姿勢が表れている。やがて世間の関心が薄れても、メディアへのこの執着は、死の瞬間まで消えることはなかった。
検証――やはり計画的犯行だったのか
事件から長い年月が流れたのち、裁判での主張に反して、バッハマイヤーが復讐を長期間にわたり計画していたことを示す証言が浮上してきた。1995年、彼女自身がARDのトーク番組「フリーゲ」に出演し、「よく考え抜いた末に、娘の殺人犯を裁くために、そしてアンナについての嘘をこれ以上広げさせないために撃った」と明かした。さらに2006年のARDドキュメンタリーでは、元友人が「アンナの殺害後、マリアンヌは酒場の地下室で射撃の練習をしていた」と証言している。
マリアンヌ・バッハマイヤーは、生涯を通じて、自らの復讐を悔いたことを公に語ることは一度もなかった。