歴史上の人物

ミュンヒハウゼン男爵はいかにして「嘘つき男爵」になったのか

教会の尖塔に馬をつないだり、砲弾にまたがって空を飛んだり、自分の髪の毛をつかんで沼から引き上げたり、さらには月まで旅した――。こうした逸話が事実であるとは言えませんが、「嘘つき男爵」として知られる人物は実在しました。

文:イレーネ・アルテンミュラー

名高いミュンヒハウゼン男爵の冒険譚は、今日でも世界中で親しまれています。しかし、伝説の「嘘つき男爵」が文学上の架空の人物ではなく、実在の歴史上の人物だったことはあまり知られていません。300年前の1720年5月11日、ヒエロニムス・カール・フライヘル・フォン・ミュンヒハウゼンは、ヴェーザー山地の小さな町ボーデンヴェルダーに生まれました。では、一介の地方貴族だった彼は、どのようにして世界的に有名な「嘘つき男爵」になったのでしょうか。

アントン・ウルリヒ公に仕えたミュンヒハウゼン

ミュンヒハウゼンの生涯について、歴史的に裏付けのある記録はごくわずかしか残っていません。ヒエロニムスは母親と7人のきょうだいとともに両親の領地で育ちました。父親は彼が4歳のときに亡くなります。少年は13歳でボーデンヴェルダーを離れ、まずベーレン城で小姓として仕え、その後ヴォルフェンビュッテルのブラウンシュヴァイク宮廷に仕えました。1737年12月、ヒエロニムスは主君であるアントン・ウルリヒ公に従ってサンクトペテルブルクへ向かいます。公爵がロシア皇帝の姪と結婚していたためです。冬のロシアを横断するこの旅は、教会の尖塔のてっぺんに立つ馬の話など、ミュンヒハウゼンの最も有名な物語のいくつかにモチーフとして登場します。

砲弾にまたがる:ミュンヒハウゼンと戦争

伝説の砲弾乗りは露土戦争中の出来事として描かれています(画像はギュスターヴ・ドレによる歴史画)。

ロシア・ブラウンシュヴァイク連隊の一員として、ミュンヒハウゼンはその後まもなく、アントン・ウルリヒ公とともに露土戦争に従軍したと考えられています。この戦争、とりわけ黒海のオチャコフ要塞攻囲戦が、ミュンヒハウゼンの伝説的な砲弾乗りの歴史的背景となっています。物語の中で男爵は、トルコの要塞を偵察するために、砲するために、砲弾にまたがって敵陣へ飛んでいきますが、飛行中に気が変わり、空中でトルコ軍の砲弾に乗り換えて自陣へ戻るというのです。

ロシアとリガでの日々

1741年、幼い息子がすでに新皇帝に擁立されていたアントン・ウルリヒ公は、新女帝によって失脚し、妻アンナ・レオポルドヴナとともに投獄されました。これはミュンヒハウゼンにとって大きな打撃となり、有望だった彼のキャリアはここで断たれました。アントン・ウルリヒ公は家族とともにリガで幽閉されます。ミュンヒハウゼンは1750年まで主にバルト諸国にとどまりました。

人気の語り手となる男爵

ミュンヒハウゼンは、赤いパンチ酒とパイプを片手に、客人たちを逸話で楽しませていたと言われています。

この頃、ミュンヒハウゼンは戦争や狩りでの冒険についての面白い逸話を友人たちに語っていたようです。またバルト地方で後の妻ヤコビーネと出会い、1744年に結婚しました。

1750年、二人はボーデンヴェルダーへ戻ります。以降、ミュンヒハウゼンは典型的な地方貴族の生活を送り、狩りに興じ、客をもてなして時を過ごしました。良い仲間に囲まれ、パンチ酒とパイプを片手に、知人や狩りの仲間に自分の話を聞かせて楽しませました。1763年には社交の夕べのために特別な東屋を建てています。この「ミュンヒハウゼンの洞窟」は、今日でもボーデンヴェルダーで見ることができます。

物語の出版

ミュンヒハウゼン自身は、自分の逸話が書き留められて出版されることを望んではいなかったようです。それにもかかわらず、聞き手の一人が物語に触発され、1781年「滑稽な人々のための手引書」に発表しました。冒頭にはこうあります。「H村に住むM氏なる非常に面白い人物がおり、独自の意味深い物語を考案している。それは信じがたい誇張に満ちた物語だが、あまりにも可笑しく、心ゆくまで笑わずにはいられない」。

ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーによる出版

1785年、今度はミュンヒハウゼンの名前を伏せずに、一連の冒険譚と「嘘」の物語が刊行されます。作家・学者のルドルフ・エーリヒ・ラスペがイングランドで出版したもので、彼は託されたコレクションから貴重な貨幣を盗んだため、そこへ亡命せざるを得ませんでした。

ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーがドイツ語でミュンヒハウゼンの物語を出版し、これが今日まで続く「嘘つき男爵」のイメージを形作りました。

物語は好評を博し、ほどなくラスペは、実在のミュンヒハウゼンの人生とは何の関係もない海の冒険譚を加えていきます。

1786年、「フォン・ミュンヒハウゼン男爵の驚くべき旅」という題でドイツ語版も登場します。ゲッティンゲンの詩人ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーが翻訳し、さらに物語を補足したものです。

嘲笑されたと感じたミュンヒハウゼン

ミュンヒハウゼンは見事な語り手として有名になりました。しかし地方貴族にとって喜ばしいことなどなく、むしろその逆でした。男爵は深く傷つき、周囲すべての人に嘲笑されていると感じました。著者や出版社を訴えることも考え、「彼らの悪意によって、全世界の前で身を売り物にされた」とさえ感じていました。その後、彼はますます疑り深く、無口になっていったと、子孫のアルベルト・フリードリヒが家族史の中で記しています。

晩年に深まる苦悩

しかし、評判を損なわれたことへの怒りだけが、ミュンヒハウゼンの晩年を苦しめたわけではありません。1790年、妻ヤコビーネが亡くなりました。結婚は子宝に恵まれず、男爵は孤独なまま取り残されます。孤独から逃れるため、74歳の男爵は再婚します。花嫁は20歳のベルナルディーネ・フォン・ブリュンでした。しかしわずか数ヶ月後、年の離れた若い妻との結婚は破綻し、ミュンヒハウゼンは離婚を申し立てます。

「嘘つき男爵」への転落

長期に及ぶ離婚裁判の中で、ミュンヒハウゼンは財産の大部分を失います。法廷では彼は「誇張された想像力」「活発すぎる想像力」の持ち主だと非難されました。この「嘘つき男爵」への告発は、彼の有名な物語と同じように作り話だったのです。孤独で、苦々しく、「嘘つき男爵」という悪名を刻まれたまま、ミュンヒハウゼンは1797年2月22日、裁判が結審する前に亡くなりました。ボーデンヴェルダーの聖マリエン・ケムナーデ修道院教会に眠っています。

今もミュンヒハウゼンを偲ぶボーデンヴェルダー

ミュンヒハウゼンのボーデンヴェルダーの屋敷は今日まで残されています。市庁舎は彼の生家であり、屋敷内最古の建物である「シューレンブルク」にはミュンヒハウゼン博物館が入っています。「嘘つき男爵」はおそらくこの街と地域で最も重要な広告塔です。生誕300年を記念して特別切手と記念硬貨が発行されました。記念式典や数多くの関連イベントは、コロナ禍のため延期されました。