ハンブルク出身の作家にしてゲオルク・ビューヒナー賞受賞者、ハンス・エーリッヒ・ノサック(Hans Erich Nossack)。彼は自らの人生を「外側の人生」と「本当の人生」の二つに分けて捉えていた。1901年1月30日、ハンブルクに生まれたこの男とは、いったいどのような人物だったのだろうか。
文:アネッテ・フォラント、ダヴィト・マニコフスキ
戸籍が語る経歴と、日記に綴られた「真実の生涯」
ノサックはよく、「自分には二つの伝記がある」と語っていた。「一つは(……)役所の話だ。戸籍、住民登録、税務署など、公的機関のほうが私自身よりも正確な情報を提供してくれる。それらの記録は、想像力に欠けているがゆえに絶対的に信頼できる」。しかしもう一つの、真実の伝記については、彼は昼夜を問わず格闘し続けた。15歳から書き続けた日記は、この「本当の」人生の証だった。彼にとってそれは、ブルジョワ的な見せかけからの脱出であり、存在の真実を探し求める営みでもあった。
芸術家たちこそが「本当の家族」になった
ノサックは実の家族から距離を置いていた。母との関係については「私の人生における不幸」とまで語っている。その一方で、彼はもう一つの家族を見出した。それこそが「本当の家族」であり、精神的につながりを感じられる芸術家や作家、詩人たちで構成されていた。彼にとっては実の家族よりはるかに高い位置を占める存在である。とりわけノサックは、詩人・劇作家のクリスティアン・フリードリヒ・ヘッベルや画家フィンセント・ファン・ゴッホを手本とした人物として仰ぎ、彼らを「父」と呼んでさえいる。
ゲーテ批判と「人格を持たない人々」への嫌悪
その一方でゲーテに対しては、「純粋文化の中の有能なドイツ的地方人。気取った衣装の下から、いつも小物の大物が覗いている」と手厳しい。またトーマス・マンについては「不誠実と臆病の化身」と断じた。こうした「敵」への批判を正当化する際、彼は彼らが「偽物」であり人格を持たないからだと語っている。
ハンブルクでの青年期――昼は銀行員、夜は劇作家
ハンス・エーリッヒ・ノサックは1901年1月30日、ハンブルクの裕福な商人の家に生まれ、ハーヴェステフーデの邸宅で育った。ギムナジウムで学んだ後、ハンブルク大学で美術史と文学を専攻。1920年にはイェーナ大学に移って法学と哲学を学ぶが、こちらの中退もやむなくなる。故郷ハンブルクに戻った24歳の彼は、劇作家として文筆活動を開始する。そしてガブリエレ・クニーラーと結婚し、二人は終生連れ添うことになる。夜は戯曲『エルニン』や三幕劇『カインの群れ』といった作品を執筆し、昼は1933年まで銀行員として働いていた――ただしそれは、あくまで「外側の人生」にすぎなかった。
ナチズムへの抵抗――共産党での活動
若き作家にして商人の息子でもあったノサックは、政治的にも活動的だった。1930年、ナチ運動に抗するためにドイツ共産党(KPD)に入党する。この党籍が原因となり、後には突撃隊(SA)やゲシュタポが彼の住居を家宅捜索することになる。1933年からは父のコーヒー・カカオ輸入会社で働き、後にこれを引き継ぐことになる。一方、「本当の人生」において1930年代から40年代にかけては、詩篇のほか戯曲『最終舞台稽古』『ヘッセンの急使』などを書き上げたが、いずれも出版されることはなかった。
1943年「破滅」――空襲が住居も原稿も焼き尽くす
1943年7月、ノサックは大きな打撃を受ける。ハンブルク大空襲により、住居だけでなく、ほぼすべての原稿も灰燼に帰したのである。それまで書き溜めてきた日記、書簡、作品類を失ったこの悲劇的な喪失は、数十年後まで彼を苦しめ続けた。「あの歳月こそが本当に重要だったのに」と、彼は1977年の日記に記している。しかし全財産の喪失、住居の完全な破壊、そして父の会社の焼失は、同時に「外側の人生」を「本当の人生」へと近づける契機ともなった。同年10月、彼は最初の散文作品『破滅』(映画『ダウンフォール』とは無関係)を書き上げる。ドイツ各地、ここでは特にハンブルクを襲った空襲の惨禍を、ドイツ人作家の一人としていち早く描き出し、ナチスへの決別を鮮明に打ち出した作品である。
戦後文学の出発点となった第二の人生
当初、この作品を発表するつもりはなかったノサックだったが、1948年、自伝的小説はアンソロジーに収録されて世に出ることになる。このテキストによって彼の名は広く知られ、第二次世界大戦中に書かれたにもかかわらず、戦後文学の出発点とみなされるようになった。ノサックはマインツ科学・文学アカデミー会員に選ばれ、その翌年にはハンブルク自由芸術アカデミーの共同創設メンバーの一人となる。
1961年ゲオルク・ビューヒナー賞、そして晩年
1955年以降、ノサックはズーアカンプ出版社から作品を刊行し続け、最後の出版物まで同社に忠誠を貫いた。1948年に死去した父の会社を解散させると、アウグスブルク近郊のアイステッテンへ移住。以降は専業作家として『生存者の物語』『遅くとも11月には』など複数の長編小説を発表する。1961年にはゲオルク・ビューヒナー賞を受賞し、その後もヴィルヘルム・ラーベ賞など数々の栄誉に輝いた。朗読ツアーにも積極的に足を運び、その一つでアメリカ合衆国をも訪れている。ダルムシュタット、次いでフランクフルト・アム・マインに短期間居住した後、1969年に故郷ハンブルクへ戻った。そして8年後の1977年11月2日、この地で生涯を閉じ、オールスドルフ墓地に眠っている。