ペン一本で生計を立てたフランス初の女性とされるクリスティーヌ・ド・ピザン。中世ヨーロッパを代表する作家、詩人、そして哲学者です。
当時としては飛び抜けた教育
クリスティーヌ・ド・ピザンは1364年頃、イタリアで生まれました。父は医師であると同時に、ヨーロッパ最古の大学として名高いボローニャ大学で占星術を講じていた学者でした。
クリスティーヌが4歳のとき、父はフランス国王シャルル5世の宮廷に招かれ、一家でパリへ移ります。彼女は貴族の令嬢としての教育を受け、音楽やラテン語、詩作を学び、哲学、歴史、宗教などの書物にも親しみました。
宮廷の少女たちの多くよりもはるかに深い教養を身につけられたのは、娘の類まれな知性を早くから見抜いていた父の後押しが大きかったでしょう。クリスティーヌは宮廷で抒情詩の創作を始め、周囲から高い評価を受けるようになりました。
26歳で未亡人に
15歳のとき、クリスティーヌは父の勧めで、王の書記官エティエンヌ・ドゥ・カステルと結婚します。夫婦仲は円満だったようで、二人の間には3人の子どもが生まれました。
しかし1380年にシャルル5世が崩御すると、父は宮廷での地位を失います。父は1387年、家族に何の蓄えも残さないまま世を去り、さらに1390年には、夫エティエンヌが流行病で亡くなってしまいました。
こうして26歳のクリスティーヌは、3人の子ども、母親、そして姪を養う未亡人となります。再婚を選ばなかった彼女は、文筆業という当時としては極めて異例の道へ踏み出し、家計の再建に挑みました。その後14年間、経済的な不安、訴訟、健康問題との厳しい格闘が続きます。初期の数年間は、教養の研鑽を積み重ねるとともに、宮廷との人脈を維持することにも力を注ぎました。
ベストセラー作家への道
夫の死後、クリスティーヌは喪失の悲しみや宮廷における女性としての生き方を綴った抒情詩を次々と発表し、それらは『百のバラードの書』としてまとめられました。この作品の成功により、著作の依頼や有力者からの支援を得た彼女は、学術・哲学・政治分野の執筆へと活動を広げていきます。
なかでも特筆すべきは、ジャン・ド・モンの代表作『薔薇物語』における女性蔑視的な描写に真っ向から異を唱えたことです。この「薔薇物語論争」と呼ばれる粘り強い闘いには、当時の著名な神学者や哲学者たちも加勢しました。
1399年から1418年にかけて、クリスティーヌは詩作にとどまらず、教育論や社会・政治・道徳に関する論考まで、膨大な作品群を生み出しました。代表作には、女性の価値を擁護した『女の都』があります。多くの作家が死後に評価を得るなか、彼女は存命中から大きな成功を収めた稀有な存在でした。
1418年、ブルゴーニュ派による恐怖政治が広まると、クリスティーヌは政情の混乱を避けるため修道院に隠棲し、そこで余生を過ごしました。1429年、ジャンヌ・ダルクがイングランド軍に最初の勝利を収めると、彼女は敬意を込めて『ジャンヌ・ダルクの歌』を著します。その直後、クリスティーヌはこの世を去ったとされています。