歴史上の人物

中国を代表する女流詞人・李清照の波乱の生涯

李清照(りせいしょう、1084年~1151年頃)は、宋時代に活躍した中国を代表する女流詩人の一人であり、「詞」と呼ばれる歌謡詩の名手として高く評価されています。

詩人の母を持つ才媛

李清照は1084年、当時の帝都・開封を擁していた山東省で生まれました。両親ともに深い教養を持ち、当時の文学界や文化サークルと広く交流していました。女性が教育を受けることが稀だった時代にあって、母親は著名な女流詩人として知られ、父・李格非は都で官職に就く文官でした。

学者の家系に生まれ、本に囲まれて育った清照は優れた教育を受け、文学、歴史、書道、音楽、絵画などを幅広く学びました。十代の頃から詩への強い関心と類まれな才能を見せ始め、17歳の時にはすでにその名が父の交際する文学サークルに知られ、称賛されていました。

夫・趙明誠との結婚生活

1101年、清照は金石学者の趙明誠と結婚しました。二人は詩への共通の情熱を分かち合う仲でした。明誠は官職の都合上しばしば不在となりましたが、夫となりましたが、夫婦の絆は固く、その理解は知的な次元にも及びました。清照は夫に詩を送り続け、明誠は妻の才能を深く敬愛していました。彼女は多くの恋愛詩、とりわけ「詞」を数多く残しています。詞とは、既存の旋律に合わせて定型の韻律で詠む歌謡詩で、句の長さは不規則であるのが特徴です。さらに清照は、明誠が編纂した全30巻の『金石録』に代表される金石学研究にも協力しました。

しかし、夫婦仲は円満だったものの、両家の間には深刻な対立がありました。1101年に宰相に任命された明誠の父・趙挺之は改革派に属し、一方の李格非は保守派でした。二人は相次いで失脚することになります。趙挺之は1107年に死去し、息子の明誠は山東省の青州へ左遷されました。ところが、夫婦にとってこの時期はむしろ幸せな時間となりました。それは互いに贈り合った詩からも窺うことができます。1121年には明誠が萊州の知事に任命され、その後青州の知事も務めました。

金王朝の台頭と戦乱

1115年、指導者・金太祖のもと、女真族が宗主国である遼王朝に反旗を翻し、金王朝を建国しました。新しい王朝は、遼と長年敵対してきた宋と同盟を結び、遼が支配していた領土の返還を定めた協定を交渉しました。

しかし、宋と金の双方で軍事的失敗が重なり、協定の履行は難航します。さらなる交渉も決裂し、金は帝都へ進軍する軍を派遣しました。これが金と宋の王朝間戦争の始まりであり、この戦争は一世紀以上にわたって続くことになります。

1126年、開封は金軍によって陥落し、都の陥落は南への大規模な避難の流れを引き起こしました。清照にとって幸福な日々はここに終わりを告げます。都を追われた彼女は南京にいる夫のもとへ向かいました。明誠はそこで知事に任命されましたが、1129年、湖州への新任の赴任途中に亡くなってしまいます。

夫を亡くした喪失は清照の心に深い傷を残しました。その後の作品には、亡き夫への思い、未亡人としての悲嘆、そして戦争への恐怖が色濃く滲み出ています。

放浪と苦難の日々

女真族の南下に伴い、李清照は10の都市を転々とした後、1127年以来宋の新しい帝都となっていた杭州にようやく落ち着きました。その後、張汝舟という男性と一時的に再婚しますが、彼に虐待を受け、数ヶ月後に離婚を勝ち取っています。

晩年の詳しい様子はあまり知られていません。清照は1134年に杭州を去り、浙江省金華にいる弟のもとへ身を寄せ、放浪と貧困の生活を送りました。没年は正確には不明ですが、1151年頃に亡くなったと考えられています。生前に散文・韻文あわせて7巻を出版しましたが、作品の断片しか現存していません。今日まで伝わっているのは約60篇の詞、19篇の古典詩、そして「賦」と呼ばれる2篇の散文詩です。

それでも李清照は、中国史上最も偉大な女流詩人の一人として、今なお高く評価され続けています。

桂花の詩

十五年前、
満月の下で、
私たちは詩を書いた
花を讃える詩を。
今日も月も花も
変わらずにあるのに、
どうすれば見つかるだろう
あの日の思い出を。