アリエノール・ダキテーヌ(1122年頃~1204年)は、まずフランス王妃として、次いでイングランド王妃として君臨した中世ヨーロッパきっての女性です。西欧の政治、とりわけ両国の関係において重要な役割を果たしました。

フランス王妃として
アリエノールは、アキテーヌ公ギヨーム10世とアエノール・ド・シャテルローの娘として生まれました。ラテン語、音楽、文学、乗馬、狩猟などを学ぶ、貴族らしい洗練された教育を受けたといわれています。1130年に弟が亡くなると、彼女はアキテーヌ公国の相続人となります。そして1137年、父の死後、フランス王位継承者である後のルイ7世と結婚しました。ただし、アリエノール自身はアキテーヌ女公の地位を保ち続けています。
結婚からわずか数日後、フランス王ルイ6世が崩御。アリエノールは1137年のクリスマスにフランス王妃として戴冠しました。政治への関与こそ比較的薄かったものの、夫に対しては少なからぬ影響力を持っていたと伝えられます。1145年には長女マリーが誕生しました。
イングランド王妃として
1147年、ルイ7世とアリエノールはそろって第二回十字軍に向かいますが、遠征は苦い失敗に終わります。旅の途上で夫妻の不和は深まる一方で、アンティオキアでは、アリエノールが叔父にあたる同地の君主レーモン・ド・ポワティエと不義の関係にあると疑われ、その噂は一気に膨らみました。二人は結局、別々にフランスへ戻ることになります。
帰国後、夫妻は一時的に和解し、次女が誕生します。しかし不和は再び表面化し、1152年、4親等および5親等の血族関係(近親婚)を理由に婚姻は無効とされました。わずか8週間後、アリエノールはポワティエにおいて、10歳年下のアンリ・プランタジネット(後のイングランド王ヘンリー2世)と再婚します。1154年12月19日、二人はイングランド国王・王妃として戴冠しました。以降13年間で8人の子供に恵まれています。
即位後最初の2年間、アリエノールは自らの権威を確立していきました。夫の巡幸に同行し、夫が移動できないときにはその代理を務めます。1167年から1173年にかけては、重要な決定にも関与するようになりました。奔放な女性としての評判とは裏腹に、夫の度重なる不貞に悩まされていたようです。
息子たちを巻き込んだ陰謀
1173年、アリエノールは、息子たち――リチャード、ジョフロワ、そして若王アンリ――を父ヘンリー2世に対して蜂起させる陰謀を仕組みます。この反乱は、フランス王ルイ7世、スコットランド王ウィリアム1世(獅子王)、さらに強大なイングランド諸侯らによって支援されました。アリエノールは自らの権力回復を望みましたが、捕らえられてしまい、リチャードも最終的には父の側に付きます。彼女は約15年間にわたり幽閉されることになりました。
1189年にヘンリー2世が死去すると、新王となった息子リチャード獅子心王の命令により釈放されます。1191年初頭まで、アリエノールはリチャードの名代としてイングランドを統治しました。第三回十字軍からの帰還途中にリチャードが捕虜となると、彼女は身代金を集め、その解放を実現させています。1199年にリチャードが死去すると、今度は末子ジョンを支持し、77歳という高齢でありながらフランス各地を駆け巡り、味方となる同盟者を探し求めました。
1204年3月、病に伏していたアリエノールは、ポワティエにて82歳でこの世を去りました。
歴史に残る足跡
アリエノールは、南仏の吟遊詩人(トルバドゥール)文化の庇護者としても知られ、「宮廷の愛」と呼ばれる文化の発展に寄与したとされます。二つの王国の王妃となり、二人のイングランド王(リチャード1世とジョン)の母でもあった彼女は、中世における最も影響力のある女性の一人として、今日なお多くの人々を魅了し続けています。
関連情報
アリエノール・ダキテーヌについてさらに詳しく知りたい方は、Wikipediaの項目や、彼女に捧げられた専門サイトを参照してください。