マリー=ソフィー・ジェルマン(Marie-Sophie Germain、1776年〜1831年)は、フランスを代表する初期の女性数学者の一人です。数論や弾性体の研究で知られ、数学界の巨人カール・フリードリヒ・ガウスとも文通を交わしたことで有名です。
アルキメデスの伝記から始まった数学への情熱
ソフィー・ジェルマンが13歳のときに読んだアルキメデスに関する書籍が、彼女の数学への情熱の原点だったといわれています。伝えられるところによれば、アルキメデスがシラクサ攻防戦のさなか、敵兵の手にかかって命を落とす場面を読み、学問に没頭するあまり命を落とした学者の姿に強い衝撃を受けたのだそうです。
彼女はその後、独力で数学の勉強を始めました。しかし父アンブロワーズ=フランソワ・ジェルマンは、娘が当時「男性の職業」とみなされていた数学者への道へ進むことを恐れ、猛反対しました。夜にこっそり勉強しないよう、部屋の暖房や蝋燭まで取り上げられたこともあったといいます。それでも彼女の決意は揺るがず、最終的に父親も折れて支援するようになりました。
「アントワーヌ・オーギュスト・ルブラン」という偽名
当時のエコール・ポリテクニーク(理工科学校)は男子しか入学を許されていませんでした。そこでソフィーは、かつて在籍していた学生「アントワーヌ・オーギュスト・ルブラン(Antoine Auguste Le Blanc)」になりすまし、講義ノートを入手して学び続けました。さらに、この偽名を使って数学者ジョゼフ=ルイ・ラグランジュに自分の考察を送ります。ラグランジュはその才能に驚き、正体が女性であると知った後も変わらず指導を続け、彼女の良きメンターとなりました。
ソフィー・ジェルマンの定理とガウスとの交流
数論の分野において、ソフィーは現在も彼女の名を冠して呼ばれる「ソフィー・ジェルマンの定理」を証明しました。これはフェルマーの最終定理の研究に関わる重要な成果で、特定の素数(現在「ソフィー・ジェルマン素数」と呼ばれるもの)について、第一の場合の解が存在しないことを示したものです。
同じく「アントワーヌ・オーギュスト・ルブラン」の名を借りて、彼女はドイツの大数学者カール・フリードリヒ・ガウスに手紙を送り、長年にわたり文通を続けました。やがてナポレオン戦争の混乱の中、占領軍からガウスを守ろうとした際に自らの正体を明かします。ガウスは当初の驚きを超えて、彼女の才能と勇気を高く評価し、以後も敬意を持って接したといわれています。
アカデミー賞の受賞と、フランス学士院への足掛かり
1808年頃、ドイツの物理学者エルンスト・クラトニーの振動実験を説明することが課題となり、パリ科学アカデミー(アカデミー・デ・科学)が懸賞問題を出題しました。ソフィーはこれに1811年から挑戦し、二度の失敗を経て、1816年についに受賞を果たします。弾性曲面の研究によるもので、これは女性として初めての快挙でした。
また、数学者の友人の尽力により、彼女はフランス学士院(Institut de France)の会議に、会員の妻ではなく研究者本人として出席することを許された最初の女性となりました。しかし、当時の社会には「女性は科学の能力を持たない」という偏見が根強く、彼女の業績は十分に評価されないまま埋もれる部分も多くありました。
晩年と遺された遺産
1831年、ソフィー・ジェルマンは乳がんのため55歳でこの世を去りました。ゲッティンゲン大学から名誉博士号の授与が内定していた矢先の死でしたが、受取ることは叶いませんでした。
彼女が遺したのは、数論と弾性変形に関する貴重な研究成果です。特に弾性理論の基礎は、後の建築工学や金属工学の発展に寄与し、エッフ ェル塔の設計にも間接的に影響を与えたとされます。パリには今日、彼女の名を冠した「ソフィー・ジェルマン通り」や学校が存在し、女性が科学の分野で活躍できることの証として、その功績は今も語り継がれています。