歴史上の人物

秋瑾(Qiu Jin)― フェミニズムと革命に命を懸けた中国の詩人

秋瑾(しゅうきん、1875年–1907年)は、中国の詩人であり、フェミニストとして、また革命家としてその名を刻んだ人物です。女性解放と国家変革のために生涯を捧げ、今日では中国を代表する英雄の一人として称えられています。

雑誌『中国女報』の創刊

秋瑾は1875年11月8日、中国東部・浙江省紹興の官吏の家庭に生まれました。1896年に結婚し、夫を追って北京へ移るまでの前半生については、詳しい記録がほとんど残っていません。しかし北京で新しい思想に触れたことを機に、彼女の中で自立心が芽生えていきます。義和団運動の後、清朝による女性の扱いへの抗議の意思を示すため、あえて西洋風の男装をまとい、武術の鍛錬にも打ち込みました。

1904年、二人の子どもを祖国に残して単身日本へ渡ります。勉学のかたわら、清朝打倒を掲げる複数の革命団体に相次いで参加しました。従兄とともにこれらの秘密結社の連携・統合に尽力したのもこの時期です。1905年に帰国すると、雑誌『中国女報』を創刊し、女性が学問と職業を通じて経済的に自立することを力強く訴えました。家族や政府による抑圧への抵抗を呼びかけ、纏足(てんそく)をはじめとする因習に対しても真っ向から反対の声を上げています。

大通学堂の校長として

優れた弁舌の持ち主でもあった秋瑾は、結婚の自由から教育を受ける権利に至るまで、女性の権利に関する演説を各地で行いました。1907年には故郷の紹興へ戻り、大通学堂の校長に就任します。同校は表向きは体育教育のための学校でしたが、実際には革命家を養成する秘密の拠点でした。紹興を拠点に武装蜂起の計画を進めますが、謀議が発覚し、1907年7月12日に逮捕されます。過酷な拷問に耐えて一切を黙秘し続けましたが、証拠が押収されたことで死刑を宣告され、1907年7月15日、わずか31歳で刑場に散りました。

死後、杭州には彼女を記念する墓碑が建立されました。現代の中国において秋瑾は、とりわけ女性の権利を求める闘いの象徴的存在として、今なお多くの人々に記憶され続けています。