歴史上の人物

メアリー・ムソニ・ニャンジル:ハリー・トゥク救出に命を懸けたケニアの女性英雄

キクユ族の活動家メアリー・ムソニ・ニャンジル(?〜1922年)は、ケニア・ナショナリズムの父と称されるハリー・トゥクの逮捕に異議を唱え、抗議デモの中で見せた英雄的な行動によって知られる女性です。

英国植民地の下で

ケニア最大の民族グループであるキクユ族の出身で、メアリー・ムソニ・ニャンジルはナイロビから約100キロ離れたウィサガで生まれました。生年月日は不明です。幼少期についても詳しいことはほとんど分かっていませんが、彼女がイギリスによる植民地支配下の国で育ったことだけは確かです。

この地域には1840年代から宣教師たちが入っており、その勢力範囲は1895年に「イギリス東アフリカ保護領」、1920年には「ケニア植民地・保護領」となりました。1922年当時、メアリーはナイロビで嫁のエリザベス・ワルイルと暮らしていました。

メアリーは独立運動家ハリー・トゥクの熱心な支持者でした。「ヤング・キクユ協会」(のちに「東アフリカ協会」と改名)のメンバーだったトゥクは、アフリカ人の土地の権利を守り、課税や身分証明書の携帯義務、低賃金などの抑圧的な政策に反対して闘っていました。そして何より、彼が問い直そうとしていたのは植民地体制そのものだったのです。

「ムネネ・ワ・ニャチンガ(女性たちの指導者)」の異名を持つハリー・トゥクは、女性たちと密接に関わり、身体的・性的暴力や強制労働、搾取に苦しむ女性たちを支援しました。また、イギリス製商品のボイコットを女性たちに呼びかけるなど、彼らを闘争の重要な担い手として頼りにしていたのです。

ハリー・トゥクの逮捕

ケニアの人々から圧倒的な人気と影響力を得るようになったハリー・トゥクは、1922年3月、植民地当局によって逮捕されました。その反応はすぐに表れます。逮捕の翌日、「東アフリカ協会」は指導者の釈放を求めてストライキとデモを組織し、警察署前に集結したのです。数千人が集まり、警察署の前で祈りを捧げたのち、いったん散開しました。

同じ日の夜、「東アフリカ協会」は支持者たち、さらには女性の支持者たちにも伝統的な宣誓を行わせました。慣習上、この宣誓は男性だけのものであり、女性は誓いを立てる資格がないとされていたため、これは異例の出来事でした。エリザベス・ワルイルの証言によれば、その夜集まった約200人の女性たちが宣誓し、ハリー・トゥクの釈放を誓い合ったといいます。

3月16日のデモ

逮捕から2日後、支持者の中から6人の男性が選ばれ、植民地長官チャールズ・ボーリングとの交渉に臨みました。ところがボーリングは「政府がハリー・トゥクと面会し、その処遇を決めなければならない」と語るばかり。6人は群衆の解散を試みましたが、運動家たちの求めは裁判ではなく即時釈放であり、この回答に満足する者はいませんでした。

やがて群衆の内部に亀裂が走ります。女性たちの一団は代表団の男性たちに言葉で詰め寄り、去ろうとする者たちを呼び戻しました。そこでメアリー・ムソニ・ニャンジルは、おのれの身をもって群衆に立ち向かったのです。彼女は男性の権威と植民地当局の権威の双方への挑戦というジェスチャーを示しました。すなわち、服をまくり上げて裸をあらわにし、こう叫んだのです。「私のドレスを取って、あなたのズボンをよこしなさい。あなたたち男は臆病者よ。何をぐずぐずしているの? 私たちの指導者があの中にいるのよ。さあ、迎えに行きましょう!」

キクユ族のあいだで、このジェスチャーは「クトゥラミラ・ンガニア(guturamira ng'ania)」と呼ばれます。男性の権威と男らしさを問いただす重大な侮辱ですが、だからこそ強烈な訴えかけとなりました。メアリーにならい、多くの女性たちも次々と服をまくり上げ、歌いながら、男たちが散らずに戦い続けるよう促していきました。

メアリーと群衆は警察の警戒線へと前進します。そして警察は発砲しました。

公式発表では死者は21人とされていますが、他の資料では犠牲者は100人以上に及んだ可能性も指摘されています。メアリー・ムソニ・ニャンジルは、真っ先に倒れた人々の一人でした。今日、彼女はケニアにおける植民地主義との闘いの英雄として記憶されています。

なお、ハリー・トゥク自身は1931年に釈放されることとなります。