
ジョーダの誕生
ラオ・ランマルには26人の息子がおり、ジョーダは次男として生まれた。母はランマルの義妹にあたるコドマデ王妃で、ヴィクンプルとプンガルの領主ケルハン・バティの娘である。トッドはジョーダがダンラ村で生まれたと記している。ガウリ・シャンカル・ヒラチャンド・オジャはジョーダをランマルの長男としているが、ヴィシュウェーシュワル・ナート・レウは次男としている。オジャはジョーダの生年を1416年4月1日(ヴィクラム暦1473年)としているのに対し、レウは1415年3月29日(ヴィクラム暦1471年)としている。トッドはヴィクラム暦1484年(西暦1427年)としているが、これは誤りとされる。一般にレウの説が正確とされている。
父と共に
1427年、ランマルがマンドールを奪取した際、ジョーダはわずか12歳ながら父と共に戦場へ赴いた。1433年、ランマルがメーワルのマハラナ・モーカル殺害の復讐のためメーワルへ遠征した際もジョーダは同行した。1438年、メーワル王家でランマルへの陰謀が企てられていたとき、ジョーダは父と共にチットール城にいた。ランマルが陰謀を察知すると、ジョーダに城を去るよう警告した。ジョーダは馬の放牧を口実に、チットールガル城の麓へ従者らと向かった。
チットールからの脱出
ランマルが殺害されると、一人のドム(下層階級の男性)が城壁に登り、大声で次のドーハ(対句詩)を詠んだ。
「チュンダ・アジュマルが来た、マンドゥの煙が立ち上る。
ジョーダよ、ランマルは殺された。逃げられるなら逃げよ。」
一説にはこの詩はシェナイ(ラッパの一種)の調べで演奏されたとも伝わる。この言葉を聞いた麓にいたジョーダと従者たちは、ランマルが討たれたことを悟り、自分たちにも命の危機が迫っていることを知った。ジョーダは700人の従者を連れてマルワールへ向かった。当時、ジョーダの叔父ビーム・チュンダワットは酒に酔って気を失っており、そのまま置き去りにされた。
チュンダの復讐心
クンバの伯父にあたるチュンダ・シソーディアは、マハラナ・ラクハの長男で、ラクハ没後は摂政を務めた人物(チュンダ・ラカニ)である。マルワールの姫ハンサバーイとの縁談は本来チュンダのために持ち込まれたものだったが、ラクハが「今さら老人にココナッツ(縁談の印)を送るのか」と冗談めかして言ったのを聞いたチュンダは、「では私はハンサバーイを娶らない」と宣言した。これを受け、マルワール側は「ハンサバーイから男子が生まれれば、その子をメーワルの後継者とする」との条件で、ハンサバーイを老齢のラクハに嫁がせた。チュンダはこの条件を受け入れ、自ら王位継承権を放棄したのである。ラクハの死後、ハンサバーイの息子モーカルがマハラナとなると、ハンサバーイはチュンダをメーワルから追放し、実兄ランマルを呼び寄せた。チュンダにとってこれは屈辱以外の何物でもなかった。それでも父との約束を守り、チュンダは弟たちや従者を連れてマンドゥのスルタンのもとへ亡命した。チュンダが去った後、ランマルは多くのシソーディア族をメーワルから追放し、有力酋長らを処刑した。チュンダがチットールに残してきた弟ラグデーヴまでも、ランマルは満員の法廷でクンバの目前で殺害した。こうしてチュンダは生涯、マルワールのラトール族によって苦難と屈辱を味わわされた。その復讐の炎は、ランマルの血を流しても消えることはなかった。強敵を完全に滅ぼさずして、チュンダが安らかに座していられるはずがない。チュンダは軍を率いてジョーダを追撃したのである。
ラトール族とシソーディア族の戦い
ジョーダは700騎の兵を引き連れ、砂漠へ向けて逃走した。チュンダは猛烈な形相で後を追う。メーワルの大軍の前ではジョーダの戦力は無に等しかった。ジョーダにはマンドールへ向けてひたすら忍従して走り続けるほかなかった。チトロディ村付近に達したとき、チュンダ軍がラトール一行を包囲した。不意打ちにより双方で乱戦となり、日が暮れるまで剣戟が続いた。夜闇に乗じてラトール勢は再びマルワールへ向かったが、チュンダも執拗に追撃する。カパサン付近で再び包囲され、ここで激戦が繰り広げられた。この戦いでジョーダの弟パタ・ランケートが討ち死にし、従弟のヴァルジャン(ビーム・チュンダワットの息子)がメーワル勢に負傷させられた。ジョーダはここからも辛くも逃れ延びた。その後も数度の戦闘があったが、双方とも決着はつかなかった。ラトール一行がソメシュワルの狭い谷(ナール)付近に達した頃には、すでに600人のラトール兵が命を落としていた。メーワル軍はなおも後を追う。ラトール勢は谷で殿軍を敷き、ジョーダを7騎の手勢と共にマンドールへ向かわせた。ソメシュワルの谷での戦いでメーワル戦士は多数討ち取られたが、ラトール本隊は全滅した。デスリから6マイル離れたマンダル付近に達したとき、ジョーダの弟カンダルが合流した。諸記録によれば、最終的にジョーダはわずか7騎でマルワールへ帰還することに成功したという。
マンドール領有権をめぐるクンバの動き
チュンダはマルワールへ入り、マンドールを占拠した。ラトール軍は壊滅し、阻む者はいなかった。マンドールを失ったジョーダはジャングル地帯のカフニ(カヴァニ)村に身を潜めた。チュンダはこの深い砂漠までは追わなかった。彼はマンドールの統治を息子たちのクンタール、マンジャ、スーヴァ、ジャーラ、ヴィクラマディティア、ヒングル・アハラらに託し、自らはチットールへ帰還した。チュンダはマンドール周辺にメーワルの警察哨所を設置し、ジョーダがマンドールへ入れないよう封鎖した。
ランマルのシュラッダ(追善供養)
チュンダがジャングル地域に達したとき、コドメサル池のほとりで父ランマルのシュラッダを行った。この池はジョーダの母コドマデ王妃が築いたもので、王妃はこの池の近くに住んでいた。この際、コドマデ王妃はサティ(殉死)を遂げた。
ラグデーヴのソジャット任命
マンドールがラワト・チュンダ・シソーディアの手に落ちると、彼はマハラナ・クンバへ使者を送り、「さらなる兵を送り、ソジャットを永久にメーワル領として併合してほしい」と要請した。これに対しクンバは、故ラオ・チュンダ・ラトール(マルワール)の孫にあたるラグデーヴをソジャット領主として派遣した。ラグデーヴは故チュンダ・ラトールの息子サハスマルの子である。彼は「ソジャットをうまく統治すれば、マンドールも与える」と懐柔された。ラグデーヴはソジャットを奪取しただけでなく、バグディ、カプラダ、チャウクリ、コサナも支配下に置き、拠点を築いた。
ナルバドのジョーダ襲撃
ランマルは実兄サッタからマンドールを奪っていたが、サッタの息子ナルバドがランマルと戦い敗れて逃亡していた。ナルバドは生き延び、マハラナ・クンバに仕えていた。マンドール占拠後、クンバはナルバドにカイラナの領地を与えた。ナルバドはメーワル軍を借り、カフニに潜むジョーダへ遠征した。ジョーダはナルバドがメーワル軍を率いて来ることを知ると、さらに奥深い砂漠へ退いた。ナルバドは空しく引き返し、ジョーダも再びカフニへ戻った。
建国への闘いの始まり
マハラナ・クンバはメーワル史上最も強大で威厳ある君主となった。彼はメーワル王国を安泰させただけでなく、北と東へ版図を広げた。同時代の強大なマルワーとグジャラートのスルタンを破り、ナガウルのムスリム勢力を懲罰した。このような相手と戦うことは並大抵のことではなかったが、ジョーダの運命にはクンバのような強敵と戦うことしか書かれていなかった。ジョーダはカフニ村でラトール軍を再編し、再びマンドール奪還を試みた。
ヴァルジャンの帰還
カパサンの戦いで負傷しメーワル軍の捕虜となっていたジョーダの従弟ヴァルジャン(叔父ビームの息子)は、やがて脱出に成功し、ガグラウンのチャウハン・チャチグデヴのもとへ身を寄せた。チャチグデヴは娘をヴァルジャンに嫁がせ、多額の軍資金を与えた。ヴァルジャンはこの資金を携えてジョーダのもとへ戻り、この資金がジョーダの軍備再建に大いに役立った。
マンドール遠征の相次ぐ失敗
ジョーダは何度もマンドールを攻撃したが、成功しなかった。クンバとの戦いは年月を経ても続いた。ジョーダには資源が不足し、馬は次々に死に、新たな馬を買う余力もなかった。兵士も日々減少していった。こうした状況であれば、どの王子でも落胆し王位を諦めただろう。しかしジョーダは諦める男ではなかった。彼は何度も力を蓄えてはマンドールを攻め、敗れては逃げ、また立ち上がった。ジョーダの敗北の噂はマルワール中に広まった。
熱いキッチディ(ガート)の逸話
伝承によれば、あるときマンドールから逃れてきたジョーダが、ある村のジャット(農民階級)の家に泊まった。その女主人が熱々のガート(モスとキビのキッチディ)を大皿に盛って差し出した。空腹に耐えかねたジョーダは、皿の中央にいきなり手を突っ込み、火傷を負ってしまった。それを見た女主人は言った。「お前はジョーダのような愚か者のようだな」と。ジョーダが「母上、ジョーダのどこが愚かなのですか」と尋ねると、女主人はこう答えた。「ジョーダは国境の地(末端の領地)を押さえようとせず、いきなり王都(マンドール)を狙う。そのために馬もラージプートも失って逃げ回ることになる。それゆえ私は彼を愚かと呼ぶのだ。お前も同じだ。端から食べればよいものを、いきなり中央の熱いガートに手を出すからだ」と。この言葉を聞いたジョーダは、王都奪取の執念を捨て、マルワール王国の辺境から着実に領地を固めていく戦略に転換したという。(この逸話は後世の創作と思われる。ジョーダのように勤勉で実務的な人物が、国家運営の基本を知らなかったはずがないからである。)