歴史上の人物

ムハンマド・ゴーリー、条約を装った裏切りでプリトヴィラージ王を討つ!【第27話】

ムハンマド・ゴーリー、条約を装った裏切りでプリトヴィラージ王を討つ!【第27話】

偽りの和議――1192年、タラインの第二次会戦

前回の記事で触れたように、西暦1192年、ムハンマド・シャハブッディーン・ゴーリーがプリトヴィラージ攻略のために進軍した際、一部のインド人勢力も彼に加勢しました。『ハンミール・マハーカーヴィヤ』『プリトヴィラージ・ラソー』『タバカート・ナーシリー』などの文献によれば、ムハンマド・ゴーリーが1192年にラホールへ到達すると、アジュメールへ使者を送り、プリトヴィラージに対してイスラム教への改宗と服従を要求しました。

これに対しプリトヴィラージ・チャウハーン王は、「ガズニーへ帰還せよ。さもなくば戦場で決着をつけるまでだ」と返答しました。しかしムハンマド・ゴーリーは、欺瞞によってプリトヴィラージを屈服させることを画策していました。そこで再び使者をアジュメールに送り、「自分は戦争よりも和議を望んでおり、この件についてガズニーの兄弟に使者を遣わした。指示が届き次第帰国し、パンジャーブ、ムルターン、シールヒンドの領有で満足する」と伝えたのです。

和平交渉に油断したプリトヴィラージ

この偽りの和平交渉は、プリトヴィラージを大きく油断させました。彼は少数の軍勢のみを率いてタラインへ向かい、司令官スカンダ率いる主力部隊は同行できず、第二の将軍ウダイラージもアジュメールを時間どおりに出発できませんでした。

さらに追い打ちをかけたのが、この戦争に当初から反対していた宰相ソメーシュワルです。かつてプリトヴィラージから処罰を受けたことのある彼は、アジュメールを離れ、敵側へと寝返りました。

プリトヴィラージの軍がタラインの平原に到着すると、王は条約成立の幻想にとらわれ、夜通し祝宴を続けていました。

一方のムハンマド・ゴーリーは、敵を惑わすために自陣の火を夜通し燃やし続けながら、密かに兵を動かして敵を包囲。夜明けとともに、用便のために散らばっていたラージプート兵士へ、トルコ軍が一斉攻撃を仕掛けました。たちまち戦場は大混乱に陥りました。

戦場での最期

プリトヴィラージ王は象に乗って戦場に現れましたが、周囲に味方の姿を見つけられず、馬に乗り換えて奮戦した末、戦場を離脱しました。いくつかの文献によれば、王は捕らえられ、現在のハリヤーナー州シルサー付近でムハンマド・ゴーリーの兵士によって殺害されたといいます。

歴史家フィリシュタはこう記しています。「デリーの王ゴーヴィンド・ラーイ・トマールと多くの領主たちは、勇士のごとく戦い、見事な働きを示した」。第一次タラインの戦いの勝者であるデリーのトマール王ゴーヴィンドラージや、チットールのサマール・シング王も、この第二次タラインの戦いで命を落としました。トルコ軍は敗走するヒンドゥー軍を執拗に追撃し、四散させました。プリトヴィラージ王の最期については、複数の異なる記録が残されています。

『プリトヴィラージ・ラソー』に描かれた壮絶な復讐劇

『プリトヴィラージ・ラソー』では、王の最期はガズニーで描かれています。それによれば、王は捕らえられてガズニーへ連行され、両目を潰されました。幼き頃からの友人であり宮廷詩人でもあったチャンド・バルダーイも同行しており、彼こそが『プリトヴィラージ・ラソー』を著した人物です。

チャンド・バルダーイは、王の死が避けられないことを悟ると、敵を道連れにする計画を立てます。彼はムハンマド・ゴーリーに向かい、「プリトヴィラージ王は目が見えなくても、音だけを頼りに的に矢を命中させられる」と唆しました。ゴーリーはこの驚異的な技を目にしたいと願い、盛大な催しを開きます。

高い壇上に座ったゴーリーが、盲目の王に射撃の合図を送りました。的の位置を示す言葉がゴーリーの従者の口から発せられた瞬間、詩人チャンド・バルダーイは次の二行詩を朗読します。

「竹四本、二十四ヤード、八アンガル先に証あり
その上にスルタンがいるぞ――狙いを外すな、チャウハーンよ」

ゴーリーの居場所を察知したプリトヴィラージは放った矢を見事にゴーリーの喉へ命中させ、その瞬間、ゴーリーの命は絶たれました。宿敵を討ち果たしたことを知ったチャンド・バルダーイは、兵士の手にかかる屈辱的な死を避けるため、短剣を王の腹に突き立て、直後に自身もその短剣で自らの命を絶ちました。こうして固い絆で結ばれた二人の友は、ともに武勇の世界へと旅立ったのです。当時、プリトヴィラージはわずか26歳でした。

チャンド・バルダーイがその場で亡くなったため、『プリトヴィラージ・ラソー』の残りの部分は息子が完成させたと考えられています。ただし現代の歴史家たちは、この詩人の記述を史実として認めていません。この書以外に、この記述を裏付ける同時代の資料が存在しないためです。

現代に残る謎――遺灰とインドへの帰還

国会議員プーラン・デヴィ殺害事件でティハール刑務所に収監されていたシェール・シング・ラーナーは、2004年に同刑務所から脱獄し、アフガニスタンへ渡ってプリトヴィラージ・チャウハーンの遺灰をインドへ持ち帰ったと主張しています。シェール・シングはガーズィヤーバード近郊のティルクワーに寺院を建立し、この遺灰を納めました。この一件は、彼の著書『獄中日記』にも記されています。

シェール・シングによれば、アフガニスタンのムハンマド・ゴーリーの墓の近くにはプリトヴィラージ・チャウハーンの墓が建てられており、墓参に訪れる者は、まずプリトヴィラージの墓を打ってから、ゴーリーの墓を訪ねるならわしだといいます。

インド政府は、これらの遺灰に関するいかなる主張も確認していません。しかし、骨の炭素年代測定を行えば、その年代を科学的に特定できる可能性はあります。

次回予告:ムハンマド・ゴーリーはプリトヴィラージ王の目を潰し、穴の中に閉じ込め、石で命を奪った!

(文:モハンラール・グプタ博士)