歴史上の人物

エドゥアール・ダラディエ ― 歴史教師からフランス首相へ、激動の時代を生きた急進党の政治家

エドゥアール・ダラディエ(Édouard Daladier、1884年〜1970年)は、フランス第三共和政期を代表する政治家の一人です。ヴァクルーズ県カルパントラの出身で、歴史教師としてキャリアをスタートさせながらも、やがてフランス政界の中枢へと歩みを進めていきました。

教師から政治家への道

1884年、ヴァクルーズ県のカルパントラに生まれたダラディエは、当初は歴史教師として働いていました。1911年には故郷カルパントラの市長に就任し、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、自ら志願して前線に赴きました。

急進党の中心人物として

1919年から1940年にかけて、急進党(急進社会党)の国会議員を務め、1927年〜1930年および1936年〜1938年には同党の党首を歴任しました。また、1924年から1926年の左翼連合(カルテル・デ・ゴーシュ)政権に参加し、植民地大臣、陸軍大臣、公共教育大臣、公共事業大臣といった要職を経験しています。

首相就任とミュンヘン協定

1933年、ダラディエはフランス首相(閣僚評議会議長)に就任します。しかし、1934年2月6日に起きた右翼勢力による大規模な暴動(1934年2月6日の危機)を受け、辞任を余儀なくされました。その後、1936年に発足した人民戦線(ブルム)政権では国防大臣を務め、1938年に再び首相の座に返り咲きます。

同年9月、彼はイギリスのネヴィル・チェンバレン首相らと共にミュンヘン会談に臨み、ナチス・ドイツによるチェコスロバキア領土の一部割譲を認めるミュンヘン協定に署名しました。この決定は彼自身にとっても本意ではなく、戦争回避のための苦渋の選択だったとされています。しかし宥和政策は失敗に終わり、1939年9月、ドイツのポーランド侵攻を受け、ダラディエは対独宣戦布告を行いました。

第二次世界大戦と晩年

大戦中、ダラディエはドイツ軍の捕虜となりましたが、1945年に解放されました。戦後はピエール・マンデス・フランスを支持し、1957年には共和左翼集会の議長を務めました。1958年にはド・ゴール将軍の政権樹立(第五共和政の成立)に反対の立場を示すなど、晩年まで政治的信念を貫きました。そして1970年、86歳でこの世を去りました。

基本情報

生没年:1884年〜1970年
出身地:ヴァクルーズ県カルパントラ
職業・地位:政治家