
フランス・ブルボン王朝の礎を築いた男、アントワーヌ・ド・ブルボン。彼は聖王ルイ9世の血を引く名門ブルボン家の一員で、「血の王子(プリンス・デュ・サン)」と呼ばれる王族に次ぐ高位の身分に属していました。コンデ公ルイの兄であり、のちにフランス国王アンリ4世となるアンリ・ド・ナバラの父でもあります。
ブルボン家の血の王子として
アントワーヌは1518年、ピカルディ地方のラ・フェールにおいて、ヴァンドーム公シャルル4世の子として生まれました。ヴァロワ朝の直系男子が途絶えた場合に備えて王位継承権を持つ存在であり、この出自が彼の人生を大きく左右することになります。
ジャンヌ・ダルブレとの結婚とナバラ王位
1548年、アントワーヌはナバラ王女ジャンヌ・ダルブレと結婚します。1555年に義父ナバラ王アンリ2世が没すると、妻の権利(夫婦同権)によってアントワーヌはナバラ王の座に就きました。当初、夫妻は協力して自らの王国へのカルヴァン主義(プロテスタント改革派)の導入を進めたとされています。
カトリックとプロテスタントの間で揺れる信仰
しかし、フランス宮廷の権力中枢に近い立場にあったアントワーヌは、カトリックとプロテスタントの間で絶えず揺れ動くことになります。野心から王太后カトリーヌ・ド・メディシスに接近し、ついにはユグノー(フランスのプロテスタント)の偉大な指導者として歴史に名を刻むことになる実弟コンデ公ルイや、自らの妻ジャンヌとも対立するようになりました。信仰よりも権力と地位を優先したこの姿勢は、後世の歴史家たちから厳しく評価される一因となっています。
第一次ユグノー戦争とルーアン包囲戦での死
1561年、アントワーヌは王国の中将(リウトナン・ジェネラル)に任命されました。そして1562年に第一次ユグノー戦争が勃発すると、彼はカトリック陣営について戦うことを選択します。同年10月、プロテスタント勢力が占拠するノルマンディーの要衝ルーアンの包囲戦に参加した際に負った銃創がもとで、11月に死去しました。44歳でした。
息子アンリ4世へと受け継がれた遺産
アントワーヌの死後、未亡人となったジャンヌ・ダルブレはユグノー陣営の中心人物として活躍し、息子アンリ・ド・ナバラをプロテスタントとして育て上げます。父とは異なる道を歩んだアンリは、1593年にカトリックに改宗してフランス王アンリ4世として即位し、1598年のナントの勅令によって宗教戦争に終止符を打ちました。信仰の間で揺れながら波乱の生涯を閉じたアントワーヌでしたが、その血筋こそが約200年続くブルボン朝の礎となったのです。