
ガストン・ド・フォワ=ヌムール(Gaston de Foix, duc de Nemours、1489年12月10日 – 1512年4月11日)は、フランス王国の王族にして将軍。ヌムール公、エタンプ伯、ナルボンヌ子爵の称号を有した人物である。
名門フォワ家に生まれた王族
父はエタンプ伯兼ナルボンヌ子爵のジャン・ド・フォワ、母はフランス王ルイ12世の姉マリー・ドルレアン。この血筋により、ガストンは国王ルイ12世の甥にあたるヴァロワ家の近親として生まれ、幼少期から高く期待される存在だった。
若さで託されたイタリア戦線の指揮
1511年、教皇ユリウス2世の主導でスペインやヴェネツィアらが参加する「神聖同盟」が結成され、フランスはイタリアで多方面から包囲される危機に立たされた。この窮地に際し、ルイ12世はまだ20歳そこそこの甥ガストンに、イタリアにおけるフランス軍の全指揮権を委ねたのである。
「イタリアの雷」の快進撃
着任したガストンは、機動力を活かした大胆な用兵で連合軍を次々と打ち破った。まず包囲されていたボローニャを救援して包囲網を突破すると、続く1512年2月には反旗を翻したブレシアを強襲・制圧した。さらに同年4月11日、ラヴェンナ郊外の決戦では、スペイン軍を中核とする神聖同盟軍(ヒスパノ・イタリア軍)を完膚なきまでに撃破した。
わずか数か月のうちに積み上げたこれらの武勲により、彼は「イタリアの雷(フォワの雷)」という異名で呼ばれるようになった。その用兵の鮮やかさは、同時代の人々のみならず後世の軍事史家からも高く評価されている。
栄光の絶頂で訪れた早すぎる死
しかしその勝利も束の間、敗走する敵兵の追撃を自ら先頭で指揮していたガストンは、流れ弾を受けて落馬し、スペイン歩兵の手によって討たれた。享年22歳である。
彼の死はフランスにとって決定的な打撃となった。卓越した指揮官を失ったフランス軍は勢いを失い、同年内にミラノからの撤退を余儀なくされ、イタリアにおける優位は崩れ去った。「もし彼が生きていれば、イタリア戦争の歴史は変わっていたかもしれない」と語り継がれるほど、その早すぎる死は大きな損失とみなされている。