コリニー伯ガスパール2世は、フランソワ1世に仕えた元帥を父に持ち、王国元帥(コンスタブル)モンモランシーを叔父に持つ名門の出である。人文主義的で啓蒙的な教育を施された彼は、武人としての道を選び、1552年にフランス提督(アミラル・ド・フランス)に任じられた。
穏健な出発からユグノー派の指導者へ
当初、宗教改革に対しては比較的穏健な立場をとっていたコリニーだったが、1557年のサン・カンタンの戦いで捕虜となった経験などを経て、次第にプロテスタント(ユグノー)陣営の中心的人物となっていく。やがてコンデ公らとともにその指導者として頭角を現し、第一次宗教戦争に積極的に参加した。
シャルル9世の宮廷とフランドル問題
第三次宗教戦争の講和後、コリニーはシャルル9世の宮廷に戻り、若い国王に対して大きな影響力を行使するようになった。彼はネーデルラント(フランドル)における対スペイン闘争への介入を国王に働きかけたが、この強硬策はカトリック強硬派やスペインとの衝突を恐れる勢力の反感を買うことになった。
暗殺未遂とサン・バルテルミーの夜
1572年8月、ナバラ王アンリ(後のアンリ4世)とマルグリット・ド・ヴァロワの結婚式がパリで挙行された直後、コリニーは最初の暗殺未遂に遭い、負傷した。シャルル9世は自ら彼の病床を見舞い、正義が果たされることを約束したという。
しかしそれもむなしく、同年8月23日の夜から24日未明にかけて、コリニーは宿舎で短剣による襲撃を受けて絶命した。その遺体は窓から投げ捨てられたのち、モンフォコンの絞首台へ運ばれて晒された。この殺害は「サン・バルテルミーの虐殺」の引き金となり、パリ中のユグノーが狩り立てられる大惨事へと拡大していったのである。