
ジャン=バティスト・ジュルダン(Jean-Baptiste Jourdan、1762年4月29日リモージュ生まれ〜1833年11月23日パリ没)は、「フルーリュスの勝利者」として名を残したフランスの将軍であり、後に帝国元帥に列せられた人物です。その軍歴はアメリカ独立戦争から始まり、フランス革命戦争、ナポレオン帝国、王政復古、そして七月王政へと、激動の半世紀以上にわたって続きました。
アメリカ独立戦争で歩んだ武人の第一歩
外科医の息子としてリモージュに生まれたジュルダンは、16歳で軍隊に志願し、ロシャンボー伯爵率いるフランス派遣軍の一員としてアメリカ大陸へ渡りました。サバンナ包囲戦(1779年)などに従軍して実戦を経験し、若くして負傷も負っています。帰国後は一時、雑貨商として平穏な生活を送りましたが、フランス革命の勃発とともに国民衛兵として軍務に復帰しました。
フルーリュスの戦い——革命を救った勝利
1794年6月26日、ジュルダンはサンブル=エット=ムーズ軍を指揮し、現在のベルギーにあたるフルーリュスでオーストリア軍に決定的な勝利を収めます。この勝利により連合軍はベルギーから撤退し、革命フランスの存続が決定的なものとなりました。「フルーリュスの勝利者」という呼称は、彼の生涯を通じて最大の栄誉となりました。
また1796年には、ボナパルトがイタリア方面で輝かしい戦役を繰り広げる一方、ジュルダン自身はドイツ方面の軍団を率いて進撃するなど、革命軍の中核を担う存在でした。
ブリュメールのクーデターとナポレオンとの同盟
1799年11月9日のブリュメール18日のクーデターによる第一執政府の成立は、共和派であったジュルダンの政治的野心を打ち砕きました。しかしその後、彼はナポレオンと手を結ぶ道を選び、1804年の帝政樹立に際して帝国元帥の一人に名を連ねることになります。
スペイン戦役と帝国の黄昏
帝国期にはジョゼフ・ボナパルト王の参謀総長としてスペイン戦役に従事しましたが、1813年のビトリアの戦いではウェリントン公率いる英葡西連合軍に敗れ、フランス軍はイベリア半島からの撤退を余儀なくされました。1814年にはリヨンの防衛を指揮し、翌年の百日天下では一時的にナポレオン側へ与しています。
王政復古のもとでの悲劇的な役割
ナポレオンの失脚後、ジュルダンはふたたびルイ18世に忠誠を誓いました。しかし1815年12月、かつての同僚であるミシェル・ネイ元帥を裁く軍法会議の議長を務めるという、痛ましい役目を背負うことになります。ネイは銃殺刑に処され、この裁判はジュルダンの名声に消えない影を落としました。とはいえ、王政復古体制の緊張した情勢の中で、これは避けがたい選択であったとも言われています。
晩年と評価
1819年には貴族院議員に列し、ルイ・フィリップの七月王政下でも元帥として遇されました。1833年11月23日、パリで71歳の生涯を閉じます。ペール・ラシェーズ墓地に眠る彼の名は、パリの凱旋門にも刻まれています。革命の理想、帝政の興亡、そして王政復古という三つの時代を生き抜いた「フルーリュスの勝利者」は、フランス近代史の激動そのものを体現する軍人と言えるでしょう。