
741年、父カール・マルテルの死に伴い、ピピンは兄カルロマンとともに所領を分割相続した。ピピンが受け取ったのはネウストリア、ブルグント、プロヴァンスである。しかし王国の継承は決して平坦なものではなく、兄弟はアキテーヌやバイエルンといった周辺勢力、さらには異母兄弟グリフォンとも対立することを余儀なくされた。
二人はこれらの敵対勢力を見事に打ち破り、グリフォンを投獄した。だがその成果は長続きせず、ピピンとカルロマンは最終的にメロヴィング朝のキルデリク3世を名目上の王として再び擁立することとなった。
教会との協調関係
兄弟は教会に重要な役割を与え、ドイツ伝道で名高いボニファティウス(聖ボニファチオ)司教の信頼を獲得した。この教会との緊密な結びつきが、後の王朝交代を実現する大きな下地となったのである。
単独統治への道
747年、カルロマンが修道院生活へと身を引くと、ピピンは王国の実権を一手に握ることになった。
王位就任とカロリング朝の成立(751年)
751年、ローマ教皇の同意を得たピピンは、フランク人たちによって王に選出された。傀儡にすぎなかったキルデリク3世は剃髪のうえ修道院に幽閉され、ここにメロヴィング朝は幕を閉じ、新たにカロリング朝が開かれた。
ロンバルド遠征と「ピピンの寄進」
教皇からの救援要請に応えたピピンは、ロンバルド王国に対して二度の遠征を敢行し、いずれも勝利を収めた。そして回復した領土を、従来それを支配していた東ローマ帝国(ビザンツ)ではなく、教皇へと引き渡した。これが有名な「ピピンの寄進」であり、のちの教皇領の基礎となった。
こうして「ローマ人のパトリキウス(貴族)」の称号を得たピピンは、教会の保護者として揺るぎない地位を確立したのである。
死去と王国の相続
768年に死去すると、ピピンは王国を二人の息子――カルロマンとシャルル(のちのカール大帝)――に分けて譲り渡した。
王位の系譜
- 前王:キルデリク3世(フランク王)
- 後継者:カール大帝(771年まで弟カルロマンと共同統治)