歴史上の人物

ジャン=フランソワ・リューベル(1747–1807)──三部会から総裁政府へ、革命期フランスを動かした政治家

ジャン=フランソワ・リューベル(1747–1807)──三部会から総裁政府へ、革命期フランスを動かした政治家

ジャン=フランソワ・リューベル(1747年10月8日 – 1807年11月24日)は、アルザスのコルマールに生まれた弁護士であり、フランス革命期を代表する政治家の一人である。1789年の三部会で代議員に選出されて以来、憲法制定議会・国民公会・五百人会と革命期の主要な議会を渡り歩き、最終的には総裁政府の総裁としてフランス政治の中枢に立った。

弁護士から三部会の代議員へ

コルマールで弁護士として活動していたリューベルは、1789年の三部会招集に際してバス=ラン県の第三身分代表に選出され、有名な球戯場の誓いにも署名した。革命初期にはジャコバン・クラブに属したが、その後の急進化とは距離を置き、穏健ながらも断固とした姿勢で知られる議員となった。

憲法制定議会の議長、そして国民公会へ

憲法制定議会ではアヴィニョンおよびコンタ・ヴネッサンのフランスへの併合問題を担当し、1791年には議長を務めた。1792年には新設の国民公会議員に選ばれ、国王ルイ16世の裁判では死刑に賛成票を投じている。さらにライン方面軍への特命代表(オン・ミッション)としてマインツに派遣され、前線の統制や占領地の行政にもあたった。

総裁政府の実力者と「フレクティドール18日のクーデター」

1795年に発足した総裁政府では初代総裁の一人に選ばれ、外交・軍事を担当して対外戦争を主導した。翌1796年には五百人院の議長にも就任している。王党派の勢力回復を強く警戒していた彼は、1797年9月4日(共和暦フレクティドール18日)、同僚のバラスと共にクーデターを断行し、王党派議員の当選を無効化して議会を粛清した。この「フレクティドール18日のクーデター」により共和政体は一時的に強固な基盤を得たが、彼自身の地位は対外的な強硬路線への批判とともに次第に揺らぎ始める。

失脚と晩年

第二次対仏大同盟の結成など内外の危機を受けて、1799年6月18日(プレリアル30日)の議会主導の総裁交代においてシエイエスと入れ替わる形で総裁職を去り、政界の第一線から退いた。同年11月9日のブリュメール18日のクーデターでナポレオン・ボナパルトが権力を掌握すると、彼は政界復帰を断念して故郷アルザスに隠棲し、1807年11月24日に死去した。革命の勃興から終焉までを自らの政治生命として生きた、まさに「革命の世代」を象徴する人物である。