ヴィクトル・クロード=ヴィクトル・ペラン(1764–1841)とは

ヴィクトル・クロード=ヴィクトル・ペラン(Victor Claude-Victor Perrin、1764年12月7日 – 1841年3月1日)は、ナポレオン・ボナパルトに仕えたフランスの将軍であり、後に帝国元帥に列せられた人物である。17歳でグレノーブル砲兵連隊に太鼓手として入隊し、最前線の一兵卒から身を起こして、革命戦争からナポレオン戦争にかけて数々の武勲を重ねた。第一帝政期にはベルーヌ公に叙せられている。
タロン攻囲戦での頭角
1793年のタロン攻囲戦に参加。この戦いで若き砲兵士官ナポレオン・ボナパルトが一躍名を上げたことは有名だが、ペランもまたその大胆不敵な働きぶりをボナパルトに高く評価され、以後の昇進への確かな足がかりとした。
マレンゴの戦いと名誉のサーベル
1800年6月14日のマレンゴの戦いでは、オーストリア軍の猛砲火をよく耐え抜き、デゼー率いる援軍が到着するまでの時間を稼いで勝利を決定づけた。この決定的な功績により、第一統領ボナパルトから名誉のサーベルを授与されている。
捕虜からの復帰とフリートラントの勝利
その後のある戦闘で一時的に捕虜となったが、釈放が間に合い、1807年のフリートラントの戦いでは指揮官を離れたベルナドットに代わって軍団の指揮を引き継いだ。この戦いの輝かしい勝利が彼の名声を決定的なものとし、同年に帝国元帥に任じられた。
ロシア戦役とライプツィヒ
1812年のロシア遠征では軍団を率いて従軍し、撤退する大陸軍を守る過酷な後衛戦を経験した。続く1813年10月のライプツィヒの戦い(諸国民戦争)にも参戦し、ナポレオン軍の中核として戦い抜いた。
ネイ元帥裁判と陸軍大臣としての晩年
1815年のワーテルロー後、王政復古したブルボン朝に仕えたペランは、ミシェル・ネイ元帥の裁判において死刑票を投じたことで知られている。1821年には陸軍大臣に就任し、王国の軍政を担った。1841年3月1日、パリでその生涯を閉じた。太鼓手から元帥、そして大臣へと至る彼の歩みは、実力次第で身を上げられた大革命時代のフランスを象徴する逸話として今も語り継がれている。