フランス元帥にしてスウェーデン王朝の祖となった異色の人物、ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(Jean-Baptiste Jules Bernadotte、1763-1844)。フランス革命とナポレオン戦争で頭角を現し、皇帝に疎まれながらも北欧の王座に就き、その血筋は現代まで続いています。
革命軍人からフランス元帥へ
ベルナドットは1763年、南仏ポーで検事の息子として生まれました。16歳で軍隊に入り、フランス革命の勃発とともに急速な出世を遂げます。ライン方面軍などで旅団長・師団長として活躍し、1794年には准将に昇進しました。
1804年、ナポレオン帝政の成立とともにフランス元帥に列せられます。しかし、アウステルリッツやイェーナといった輝かしい戦役で目覚ましい武勲を打ち立てたわけではなく、軍事的な天才性では他の元帥たちに一歩譲る存在でした。彼を際立たせていたのは、むしろ強烈な自尊心と独立心でした。
皇帝との確執
ベルナドットは共和派的な気風を持つ人物で、皇帝ナポレオンとの関係は決して良好ではありませんでした。1806年のイェーナ=アウエルシュタットの戦いでは命令の解釈をめぐって戦場への到着が遅れ、皇帝の不興を買ったとされます。こうした経緯から、ナポレオンは次第に彼を側近から遠ざけるようになりました。
伝えられるところによれば、ベルナドットは胸に「王どもに死を!」という言葉を刺青として彫っていたといいます。真偽は定かではありませんが、彼の反骨精神を象徴する逸話として語り継がれてきました。
スウェーデン王太子への転身
1810年、予期せぬ転機が訪れます。スウェーデン王家の継承者が途絶えたため、ストックホルムの国会(リクスダーグ)は後継者としてベルナドットに白羽の矢を立てました。ナポレオンと対立しないために、フランス出身の名将を迎えようとしたのです。ナポレオンもこれを承認し、「北に新たな味方を得た」と考えていました。
ところが皮肉にも、ベルナドットはスウェーデンの国益を最優先し、1812年以降はロシアやイギリスら欧州列強による対仏大同盟側につきます。1813年のライプツィヒの戦いでは、かつての主君ナポレオンと剣を交え、その失脚に決定的な一撃を加えることになったのです。
デジレ・クラリーとの結婚
私生活においても、ベルナドットはボナパルト家と深い縁がありました。1798年に結婚した妻デジレ・クラリー(Désirée Clary)は、ナポレオンの兄ジョゼフの義妹であると同時に、ナポレオン自身のかつての婚約者でもあったのです。この縁故が、のちにスウェーデン王位への道を開いたともいわれています。
今も続くベルナドット朝
1818年、カール14世ヨハンとしてスウェーデン王に即位したベルナドットは、中立外交の基礎を築き、王国の安定と繁栄をもたらしました。そして驚くべきことに、彼の直系の子孫は200年以上を経た今日もなおスウェーデン王位を継承しており、現在の国王カール16世グスタフも、この元フランス元帥の血を引いているのです。